概要
敗戦のとき、日本の外には、兵士と民間人を合わせて六百万人を超える日本人がいた。満洲や朝鮮や台湾、南の島々から、船で本国へ戻る引き揚げが始まる。満洲からの逃避行では、飢えと病と襲撃で多くの人が死に、親と別れて中国に残された子どももいた。舞鶴の港は、1958年まで引き揚げ船を受け入れ続けた。帰らない息子を岸壁で待ち続けた母の歌が、はやった。帝国の終わりは、人の大移動でもあった。
場所
舞鶴
35.47°N 135.39°E · 日本・京都府
35.47°N 135.39°E · 日本・京都府
本文
六百万人。
敗戦のとき。
(1)日本の外には、兵士と民間人を合わせて六百万人を超える日本人がいた。
(2)そして、満洲や朝鮮や台湾、南の島々から、船で本国へ戻る引き揚げが始まった。
逃避行。
満洲からの逃避行。
(1)飢えと病と襲撃で、多くの人が死んだ。
(2)そして、親と別れて中国に残された子どももいた。
(3)さらに、その子どもたちが肉親を探しに来日するのは、四十年後のことである。
岸壁。
舞鶴の港は、1958年まで引き揚げ船を受け入れ続けた。
(1)帰らない息子を、岸壁で待ち続けた母の歌がはやった。
(2)そして、シベリア抑留からの帰還者も、ここに着いた。
残ること。
帝国の終わりは、人の大移動でもあった。
インド・パキスタン分離と同じく、国境が引き直されるとき、人が動く。