できごと

スペイン風邪

Spanish flu
1918年 – 1920年
期間を持つできごと重要度 5
スペイン風邪に関わる図版:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603
Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603 Wikimedia Commons Otis Historical Archives, National Museum of Health and Medicine · Public domain

概要

世界で5000万人以上が死んだとされる。大戦の死者を上回るのに、長く忘れられていた。

本文

1918年から1920年にかけて、新しい型のインフルエンザが世界を三度にわたって襲った。当時の世界人口のおよそ3分の1、5億人ほどが感染したと推計される。死者は5000万人以上とされ、推計の幅は1700万から1億と大きい。少なく見積もっても、同じ頃に終わった第一次世界大戦の死者に並び、多くの推計ではそれを大きく上回る。

最初の波は、1918年の春に来た。高い熱が出て数日寝込むものの、多くは回復する、ふつうの流行病と変わらないように見えた。どこで始まったのかは、いまも分かっていない。アメリカのカンザス州の陸軍の訓練基地で3月に大量の患者が出たことがよく知られているが、それ以前にフランスの英軍の野営地で似た病気が流行していたという説や、中国から来た労働者が持ち込んだという説もある。

マスクを着用する東京の女性たち(1920年)
マスクを着用する東京の女性たち(1920年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

第二の波は、1918年の8月の終わりから始まった。こちらは、まるで別の病気のようだった。発病して数日で肺が水浸しになり、酸素が足りずに顔が青黒く変わって死ぬ患者が相次いだ。10月、流行は世界の各地でいっせいに頂点に達した。アメリカでは、この1か月だけで20万人近くが死んだとされる。棺が足りなくなり、墓を掘る人手も尽き、遺体が家に置かれたまま何日も過ぎた町もあった。第三の波は1919年の冬から春にかけて来て、日本では1920年代の初めまで流行が繰り返された。

戦争が、病を運んだ。何百万もの兵士が狭い兵舎や塹壕や輸送船に詰め込まれ、大西洋を渡り、前線と後方を行き来した。病院は負傷兵と病人であふれた。アメリカの派遣軍では、戦場で死んだ兵とほぼ同じほどの数が、病気で死んでいる。1918年9月、フィラデルフィアでは戦争のための国債を売る大パレードが予定どおり行われ、20万人ほどが沿道に集まった。数日後、市内の病院は患者でいっぱいになり、その後の数週間で1万人を超える市民が死んだ。早くから学校や劇場を閉め、集まりを禁じた都市では、死者が少なかったことが後の研究で示されている。

ニューヨーク、ベルリン、パリ、ロンドンの死亡者数のグラフ
ニューヨーク、ベルリン、パリ、ロンドンの死亡者数のグラフWikimedia Commons (Image: courtesy of the National Museum of Health and Medicine) · Public domain

「スペイン風邪」という名は、実態と合わない。戦争をしていた国々は、兵の士気を下げる知らせを報道させなかった。中立国だったスペインには検閲が無く、国王までが罹ったことを新聞が自由に報じたため、そこから流行が始まったように見えたのである。当のスペインでは、この病は「フランスの風邪」と呼ばれた。

異常だったのは、死者の年齢の構成である。ふつうインフルエンザで命を落とすのは、高齢者と乳幼児が多い。ところがこの流行では、20代から40代の働き盛りの若い大人が最も多く死んだ。理由は、いまも完全には分かっていない。健康な若者ほど免疫が激しく反応しすぎて、自分の肺を傷つけたという説がある。高齢者の多くは、数十年前に流行した似た型のウイルスにかかっていて、ある程度の免疫を持っていたのではないかという説もある。また、多くの死者の直接の原因は、ウイルスで弱った肺に後から入りこんだ細菌による肺炎だったと考えられている。それを治す抗生物質は、まだ無かった(ペニシリンの発見)。

患者の遺体から見つかったゲノムより復元されたスペインかぜウイルス
患者の遺体から見つかったゲノムより復元されたスペインかぜウイルスWikimedia Commons Photo Credit: Cynthia Goldsmith Content Providers(s): CDC/ Dr. Terrence Tumpey/ Cynthia Goldsmith · Public domain

被害は世界の隅々に及んだ。最も多くの人が死んだのはインドで、死者は1千万を超えたと推計される。南太平洋のサモアでは、ニュージーランドの統治下にあった島々に患者を乗せた船が着き、人口の2割ほどが死んだ。一方、すぐ隣のアメリカ領サモアは、港を閉ざして船の上陸を止め、死者をほとんど出さずに済んだ。

日本でも、内務省の記録で約39万人、別の推計では40数万人が死んだ。新聞は「流行性感冒」の猛威を連日報じ、政府はマスクを着けること、うがいをすること、人混みを避けることを呼びかけるポスターを作った。劇作家の島村抱月がこの病で世を去り、2か月後、彼と劇団を率いていた女優の松井須磨子が後を追って命を絶った。同じ1918年の夏には米騒動が全国に広がっており、社会は大きく揺れていた。

1918 flu outbreak2
Wikimedia Commons National Photo Company · Public domain

この病気の正体を、当時の人々は突き止められなかった。病原体は細菌だと考えられ、ある細菌が原因として名指しされたが、誤りだった。インフルエンザがウイルスによる病気だと分かるのは、1930年代になってからである。そして1990年代の後半、アラスカの永久凍土に埋葬された犠牲者の遺体や、保存されていた患者の組織からウイルスの遺伝子が取り出され、2005年までにその全体が読み解かれた。鳥のインフルエンザに近い性質を持つ型だった。

これほどの規模でありながら、この流行は長く忘れられていた。戦争の記憶に覆われたためとも、勝利や敗北の物語に組み込みようのない死だったためとも、語る言葉が無かったためとも言われる。戦争には記念碑が建ち、戦死者の名が刻まれたが、病で死んだ人々のための碑はほとんど建てられなかった。アメリカの歴史家がこの流行を「忘れられたパンデミック」と呼んで、その規模を改めて描き出したのは、半世紀以上たってからのことだった。

1918 flu outbreak RedCrossLitterCarriersSpanishFluWashingtonDC
Wikimedia Commons Unnamed photographer for National Photo Company · Public domain

それでも、教訓は少しずつ形になった。第二次世界大戦の後には世界保健機関の設立が設立され、各国のインフルエンザの流行を見張り、知らせ合う仕組みが作られた。このときのウイルスの子孫は、その後も形を変えて何度も流行を起こしている。

100年後、同じことがまた起きた。2020年、新しいウイルスが世界を襲うと(COVID-19の世界的流行)、学校を閉め、集まりを禁じ、マスクを着けるという、1918年とほとんど同じ対策が取られた。フィラデルフィアの町の死者の数の記録も、もう一度読み直された。

出典(1)

ウィリアム・H・マクニール(佐々木昭夫 訳) 『疫病と世界史』第6章 医学と医療組織の役割

同じ時代のできごと

イエロー・ジャーナリズムAD1898年2月15日オムドゥルマンの戦いAD1898年9月2日米西戦争AD1898年明治民法と家制度AD1898年7月16日ラジウムの発見AD1898年田園都市AD1898年子どもを別に裁くAD1899年ハーグ平和会議AD1899年5月18日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1918年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →