人物

杉原千畝

Sugihara Chiune
AD1900年1月1日 – AD1986年7月31日(享年86)
日本重要度 3

概要

リトアニアの領事館で、本国の指示に反して日本通過のビザを書きつづけた。一か月で2000通あまり。それで6000人が逃げたとされる。

所属

日本

関わったできごと(1)

ホロコースト1941年 · ビザを書きつづけた

本文

杉原千畝は1900年1月1日、岐阜県に生まれた。出生地については諸説ある。父は税務の役人で、転勤に従って各地で育った。父は息子を医者にしたかったが、千畝は文学や語学に惹かれていた。医学の学校の試験の答案に名前だけ書いて出した、という逸話が伝わっている。

杉原千畝の肖像
杉原千畝の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

早稲田大学の英語の課程に入ったが、学費に困っていたとき、外務省の留学生の募集を新聞で見た。1919年に試験に受かり、満洲のハルビンでロシア語を学んだ。ロシア語の腕は抜きん出ていたとされ、外務省のロシアの専門家として満洲で働いた。日本が作った満洲国の外交部に出向し、ソ連が持っていた北満洲の鉄道を買い取る交渉では、ソ連の内情を探って交渉を有利に運んだ。1936年に幸子と結婚している。

ソ連にとって、杉原は警戒すべき人物だった。モスクワの大使館に赴任する予定だったが、ソ連は入国を拒んだ。杉原はフィンランドの公使館に回され、1939年、バルト海沿岸のリトアニアの臨時の首都カウナスに、新しく領事館を開く役目を与えられた。外交官は彼一人である。ソ連とドイツの動きを探ることが、本当の任務だったとみられている。

岐阜県武儀郡上有知町地図(明治44年/1911年)
岐阜県武儀郡上有知町地図(明治44年/1911年)Wikimedia Commons Mino Electric Railway · Public domain

着任の直前、ドイツとソ連は不可侵条約を結んでいた(独ソ不可侵条約)。1939年9月、ドイツはポーランドに攻め込み、ポーランドは東西に分割された。迫害を逃れたポーランドのユダヤ人たちが、まだ独立を保っていたリトアニアへ流れ込んだ。だが1940年6月、ソ連軍がリトアニアに入り、まもなく併合した。各国の領事館は閉鎖を命じられた。リトアニアにいる難民たちは、袋の鼠になりかけていた。

ソ連の領域を抜けて逃げる道はあった。シベリア鉄道で極東へ行き、日本へ渡り、そこから第三国へ向かう道である。オランダの名誉領事ヤン・ズヴァルテンダイクは、カリブ海のオランダ領キュラソーへの入国にはビザが要らない、と書いた書面を難民に出していた。行き先が決まっていれば、通過のビザが出せる。1940年7月下旬、カウナスの日本領事館の前に、日本の通過ビザを求めるユダヤ人の難民が大勢集まった。

杉原千畝が作成した通過ビザ
杉原千畝が作成した通過ビザWikimedia Commons Chiune Sugihara · Public domain

規則では、日本の通過ビザは、最終の行き先の入国許可と、旅を続けるのに十分なお金を持つ者にしか出せなかった。多くの難民は、どちらも満たしていなかった。杉原は本省に電報で指示を仰いだ。返事は、条件を満たさない者には出すな、というものだった。杉原は重ねて問い合わせたが、答えは変わらなかったとされる。

杉原は、本省の指示に反してビザを出すことを決めた。のちの回想で、妻と相談し、人道を優先した、と語っている。7月の末から、杉原は来る日も来る日もビザを書き続けた。一通ずつ手書きで、署名をし、印を押す。手が腫れ、食事の時間も惜しんだという。領事館を閉じた後も泊まったホテルで書き、9月はじめにカウナスを去るとき、ベルリン行きの列車が動き出すまで、窓からビザを書いて手渡したと伝えられている。

杉原が本省に送った記録には、2139人の名前が載っている。ビザは家族単位で出されたことが多く、実際に救われた人の数は6000人ほどとされるが、数え方には幅がある。ビザを受け取った人びとは、シベリア鉄道で1万キロ近くを旅してウラジオストクに着き、船で福井県の敦賀に上陸した。神戸などにしばらく滞在したのち、アメリカ、パレスチナ、上海などへ散っていった。翌1941年6月、ドイツがソ連に攻め込むと(独ソ戦の始まり)、リトアニアに残ったユダヤ人の大半は、ドイツ軍と地元の協力者の手で殺された(ホロコースト)。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

杉原はその後、プラハ、ケーニヒスベルク、ルーマニアのブカレストの公館に勤めた。敗戦後は家族と共にソ連の収容所に入れられ、1947年にようやく帰国した。同じ年、外務省を退職した。本人と家族は、ビザの件で辞めさせられたと受け止めていた。外務省の側は、戦後の人員整理の一環だったとしている。その後は語学を生かして貿易会社に勤め、長くモスクワに単身で駐在した。

1968年、杉原のビザで救われた一人が、イスラエル大使館の職員として杉原を探し当てた。救われた人びとは「センポ・スギハラ」という名を覚えていたが、日本の外務省の記録からは見つけられずにいた。1985年、イスラエルは杉原に「諸国民の中の正義の人」の称号を贈った。ユダヤ人を命がけで救った非ユダヤ人に贈られる称号で、日本人では初めてだった。翌1986年7月31日、杉原は86歳で死んだ。

ドイツ軍兵士たちと写真に収まるケーニヒスベルク在勤時の杉原一家
ドイツ軍兵士たちと写真に収まるケーニヒスベルク在勤時の杉原一家Wikimedia Commons Julius.jaa · CC BY 2.0

日本政府が杉原の名誉を公に認めたのは、死後14年たった2000年のことである。外務大臣が遺族に謝意を伝え、外務省の外交史料館に顕彰の碑が置かれた。命令に背いて目の前の人を救った外交官として、杉原はいま、同じ時代に工場でユダヤ人を守ったオスカー・シンドラーと並べて語られることが多い。

動画(1)

外交官・杉原千畝 〜無数のユダヤ難民を救った命のビザ〜【44-10 COTEN RADIO シンドラー編10】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOシンドラー編の中で、同じ時期に同じことをした日本人として扱う
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