ハーグ平和会議
概要
ロシア皇帝ニコライ2世の呼びかけで、1899年5月、26か国の代表がオランダのハーグに集まった。軍備の競争を止めることが表向きの目的だったが、軍備を減らす約束はまとまらなかった。そのかわり、国どうしの争いを裁判のような手続きで解く常設の仲裁裁判所を作り、陸の戦争で捕虜や住民をどう扱うかの決まりを条約にした。毒ガスを撒く砲弾、体の中で広がる弾丸、気球からの爆弾の使用を禁じる宣言も出された。1907年の2回目の会議には44か国が集まる。戦争を禁じることはできなくても、戦争に法の枠をはめる試みだった。
場所
52.08°N 4.31°E · オランダ
本文
19世紀の末、ヨーロッパの大国は、大砲や軍艦の改良を競い合い、軍備にかかる費用は年々膨らんでいた。1898年8月、ロシア皇帝ニコライ2世は、軍備の重荷を減らし、平和を保つための国際会議を呼びかけた。ロシアには、新しい大砲の競争でオーストリアについていく金が無いという事情もあった。オーストリアの作家ベルタ・フォン・ズットナーの反戦の小説『武器を捨てよ!』が評判を呼び、平和を求める運動が各国で育っていた時代でもあった。
1899年5月18日、皇帝の誕生日に、オランダのハーグの離宮で会議が開かれた。ヨーロッパの国々に加え、アメリカ、メキシコ、日本、清、シャム、ペルシアなど26か国が代表を送った。軍備を一定の期間増やさないという提案は、ドイツなどの反対で実らなかった。
そのかわり、会議はいくつかの条約を作った。国どうしの争いを、戦争の前に仲裁にかけて解くための常設の仲裁裁判所が、ハーグに置かれることになった。陸の戦争の法と慣習を定める条約は、捕虜を人道的に扱うこと、降伏した者を殺さないこと、守りのない町を攻撃しないこと、占領した土地の住民の財産を奪わないことなどを定めた。条約に書かれていない場合でも、文明国の慣習と人道の要請に従うべきだという一文も入れられた。さらに、窒息させるガスを撒くための砲弾、体の中で広がったりつぶれたりする弾丸、気球から投げ落とす爆弾の使用を禁じる宣言が出された。
1907年には、44か国が集まって2回目の会議が開かれた。このとき、日本の保護国とされた大韓帝国の皇帝高宗は、ひそかに使節を送って日本の不当を訴えようとしたが、会議に入ることを許されなかった。高宗はこの件の責任を問われて退位させられる。1913年には、アメリカの実業家カーネギーの寄付で、仲裁裁判所を収める平和宮が完成した。
3回目の会議は1915年に予定されていたが、第一次世界大戦で開かれなかった。その大戦では、禁じられたはずの毒ガスが使われた(イーペルの毒ガス)。それでも、ハーグで作られた戦争の法は、のちのジュネーヴの諸条約や、戦争の犯罪を裁く裁判へと受け継がれていった。平和宮には、いまは国際連合の国際司法裁判所が置かれている。