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Event / できごと

最初のラジオ放送

The first radio broadcast
AD1920年11月2日
重要度 4

概要

ウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。

場所

ピッツバーグ
40.44°N -79.99°E · アメリカ・ペンシルベニア州

本文

無線電信は、19世紀の終わりに生まれた。マルコーニ、1895年。船と陸、陸と陸。目的は、電線を引けない場所に、一対一の通信を届けることだった。

電波は誰でも受けられる。だから、傍受は「問題」だった。軍と会社は、暗号を掛けた。

アマチュアがいた。少年たちが、屋根裏に受信機を作り、船の電信を聞いた。1912年のタイタニックの遭難で、アマチュアの混信が救助の妨げになったとされ(実際の因果は議論がある)、アメリカで無線に免許が要るようになった。

**フランク・コンラッド**。ウェスティングハウス電気製造会社の技師。ピッツバーグ郊外ウィルキンスバーグの自宅のガレージに、実験局8XKを持っていた。

1919年、彼は毎晩、決まった時間に、蓄音機のレコードを電波に乗せ始めた。相手を特定しない。ただ流す。地元の楽器店がレコードを提供し、「ハミルトン楽器店提供」と読み上げた(放送広告の起源とされる)。

聞いていた人が増えた。ピッツバーグの百貨店ジョゼフ・ホーンが、新聞に広告を出した。「コンラッド氏の演奏会を聞ける受信機、10ドルから」。

ウェスティングハウス副社長ハリー・デイヴィスが、その広告を見た。彼が考えたのは、放送そのものの商売ではなく、**受信機を売ること**だった。放送は、受信機を買う理由になる。

会社は商務省に免許を申請し、**KDKA** の呼出符号を得た。

**1920年11月2日**。大統領選挙の投票日。ハーディング対コックス。

イースト・ピッツバーグの工場の屋上の小屋から、午後6時に放送開始。ピッツバーグ・ポスト紙の編集室から電話で開票速報を受け、それを読み上げた。合間にレコードとバンジョーの演奏。翌朝正午まで続けた。

聴取者は数百人から千人。ホテルの舞踏室や、地域の集会所に受信機が置かれ、人が集まって聞いた。

新聞が翌朝の紙面で結果を伝える前に、人々は結果を知った。

**その後の速度**。

1921年、アメリカで免許局5。1922年、500以上。受信機の売上は1922年に6000万ドル、1924年に3億5800万ドル。

1922年、イギリスでBBCの前身が設立(受信料方式。広告を取らない)。1925年、日本の東京放送局(JOAK)。ドイツ、フランス、ソ連。

**変わったこと**。

(1)**一対多**。「放送(broadcast)」は、もともと種を手で撒き散らす農業の言葉である。誰に届くか分からないまま、撒く。

(2)**同時性**。全国が、同じ瞬間に、同じ声を聞く。国民という想像された共同体が、耳で結ばれた。

(3)**声の政治**。ローズヴェルトの「炉辺談話」(1933年から)。ヒトラーの演説と、国民受信機(フォルクスエンプフェンガー。安価で、外国放送が受かりにくい設計)。1938年、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』。1945年8月15日、日本の玉音放送。1994年、ルワンダの「千の丘自由ラジオ」が虐殺を煽った。

(4)**音楽産業の変質**。楽譜の売上が落ち、レコードとラジオが主になった。ラジオ局が曲を掛けることが、売れることの条件になった。

KDKAはいまも放送している。

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