できごと

最初のラジオ放送

The first radio broadcast
AD1920年11月2日
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1920年11月2日ピッツバーグ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1920年11月2日の版図を描いています(11勢力)。

概要

ウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。

場所

ピッツバーグ
40.44°N -79.99°E · アメリカ・ペンシルベニア州

本文

無線は、19世紀の終わりに生まれた。グリエルモ・マルコーニが電波で信号を送る実験に成功したのが1895年、大西洋を越えたのが1901年である(マルコーニの大西洋横断無線)。目的は、電線を引けない場所、つまり海の上の船と陸、船と船を結ぶことだった。無線は一対一の通信の道具であり、電報の延長だった。

ところが電波は、誰でも受けられる。軍や会社にとって、それは傍受されるという欠点だった。一方で、その欠点を楽しむ人々がいた。アメリカでは少年や青年が屋根裏や納屋に手作りの受信機を置き、船の交信を聞いたり、自分でも送信したりしていた。1912年のタイタニックの沈没のあと、アマチュアの混信が救助の妨げになったと言われ(どこまで実際に妨げたかには議論がある)、同じ年の法律で、アメリカの送信には免許が要るようになった。電信から声へと技術が進んだのは第一次世界大戦のころで、真空管が音声を電波に乗せることを実用にした。

タイタニックの沈没に関わる図版:Stöwer Titanic
タイタニックの沈没Wikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

ペンシルヴェニア州ピッツバーグの電機会社ウェスティングハウスの技師フランク・コンラッドも、そうした無線の愛好家の一人だった。郊外ウィルキンスバーグの自宅のガレージに、8XKという実験局を持っていた。1919年の秋ごろから、彼は決まった晩に、蓄音機のレコードを電波に乗せて流すようになった。相手を決めて話すのではなく、ただ流す。聞いている愛好家たちから、あの曲をかけてほしいという手紙が届くようになった。地元の楽器店がレコードを貸す代わりに店の名を読み上げてもらった、という話があり、放送広告の始まりとされることもある。

1920年9月、ピッツバーグの百貨店ジョゼフ・ホーンが新聞に広告を出した。コンラッド氏の演奏を聞ける受信機あります、10ドルから、という内容だった。この広告に目を留めたのが、ウェスティングハウスの副社長ハリー・デイヴィスである。彼が考えたのは、放送で稼ぐことではなかった。決まった時間に何かが聞こえるなら、人は受信機を買う。戦争が終わって軍需の注文が途絶えた会社にとって、家庭向けの受信機は新しい市場になりうる。放送は、その市場を作るための仕掛けだった。

KDKA放送局の初期のスタジオ(1921年頃)
KDKA放送局の初期のスタジオ(1921年頃)Wikimedia Commons Austin C. Lescarboura · Public domain

会社は商務省に免許を申請し、10月末にKDKAという呼出符号を得た。最初の放送の日に選ばれたのが、1920年11月2日、大統領選挙の投票日である。共和党のハーディングと民主党のコックスの争いだった。イースト・ピッツバーグの工場の屋上に建てた小屋に送信機を置き、地元紙ピッツバーグ・ポストの編集室から電話で入ってくる開票の速報を、技師たちが読み上げた。合間にはレコードと生のバンジョーの演奏が流れた。放送は夜の間じゅう続いた。

聞いていたのは、数百人から千人ほどと推定されている。受信機を持つ愛好家のほか、会社が用意した受信機を囲んで、集会所やクラブに人が集まって聞いた。新聞が翌朝の紙面で結果を伝える前に、人々はハーディングの勝利を知った。KDKAはそのまま、毎晩決まった時間に放送を続けた。翌年には野球の試合の実況や教会の礼拝の中継も始まっている。

1922年12月に開設されたKDKAの新スタジオ
1922年12月に開設されたKDKAの新スタジオWikimedia Commons Magazine cover illustration · Public domain

もっとも、これが「最初の放送」かどうかには異論がある。1906年のクリスマスイブにはフェッセンデンが音声と音楽を送ったと伝えられ(記録には疑問も出されている)、カリフォルニアのサンノゼでは1909年ごろからチャールズ・ヘロルドが定期的に音声を流していた。デトロイトでは同じ1920年8月から新聞社の局が放送を始め、同じ選挙の結果も流している。KDKAが特別なのは、政府の免許を受けた商業局として、予告した時間に、不特定多数に向けて定期的に放送を続けた最初期の局だった点にある。

その後の広がりは速かった。アメリカの放送局は1922年のうちに500を超え、受信機の売上は1922年の6000万ドルから1924年には3億5800万ドルに伸びたとされる。1922年にはイギリスで、のちのBBCの前身となる会社ができた。こちらは広告を取らず、受信機を持つ人から受信料を集める方式を選んだ。日本では1925年3月、東京放送局(JOAK)が放送を始め、翌年には大阪・名古屋の局と合わせて日本放送協会にまとめられた。

ピッツバーグのゲートウェイ・センターにあったKDKAの旧スタジオ
ピッツバーグのゲートウェイ・センターにあったKDKAの旧スタジオWikimedia Commons Jgera5 at English Wikipedia · Public domain

「放送(ブロードキャスト)」という英語は、もともと種を手で広く撒き散らすことを指す農業の言葉だった。誰の畑に落ちるか分からないまま撒く。電波が一対一から一対多へ変わったことで、全国の人が同じ瞬間に同じ声を聞くという、それまで無かった体験が生まれた。新聞は読む時間が人によって違うが、ラジオは同時である。国民という共同体が、耳で結ばれた。

その力は、すぐ政治に使われた。アメリカではローズヴェルト大統領が炉辺談話で国民の居間に語りかけた。ドイツではヒトラーの政府が安い国民受信機を大量に売り、党と指導者の声を家庭に届けた。1938年にはラジオドラマ「宇宙戦争」が放送され、火星人の襲来を本物の報道と思った聴取者がいたと騒がれた(混乱の規模は新聞が大きく書きすぎたとする研究が多い)。1945年8月15日、日本の人々はラジオの前で玉音放送を聞いた。1994年のルワンダでは、ある民間ラジオ局が隣人への殺戮をあおり、ルワンダ虐殺の道具になった。

KDKA開局25周年を記念するウェスティングハウスの広告(1945年)
KDKA開局25周年を記念するウェスティングハウスの広告(1945年)Wikimedia Commons Company advertisement · Public domain

文化も変わった。それまで音楽の商売は楽譜を売ることが中心だったが、ラジオとレコードが主役になり、ラジオで流れることが曲が売れる条件になっていく。スポーツは実況で聞くものになり、商品の名前は番組の提供者として家庭に入り込んだ。やがて同じ仕組みに映像が乗り、テレビになる。

KDKAは、いまもピッツバーグで放送を続けている。ガレージで一人の技師がレコードを流し始めてから、受信機を売るための宣伝として始まった試みが、20世紀の政治と文化の形を変えた。

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