チャーチル
概要
英国が単独で枢軸に向き合った時期を率いた。戦後は「鉄のカーテン」を名づける。
関わったできごと(6)
第二次世界大戦1939年 · 連合国側ダンケルクの撤退AD1940年5月26日 · 首相バトル・オブ・ブリテンAD1940年7月10日 · 首相ヤルタ会談AD1945年2月4日 · 英ポツダム会談AD1945年7月17日 · 途中で交代「鉄のカーテン」演説AD1946年3月5日 · 演説本文
ウィンストン・チャーチルは1874年11月30日、イングランドのオックスフォード近郊にある大邸宅ブレナム宮殿で生まれた。父ランドルフ卿は名門マールバラ公爵家の三男で、保守党の政治家として財務相まで務めた。母ジェニーはアメリカの富豪の娘だった。両親とも息子にはあまりかまわず、少年を育てたのは乳母だった。学校の成績は悪く、陸軍士官学校には3度目の受験でようやく合格した。

騎兵の将校となったチャーチルは、戦場を求めて世界を回った。スペインに対する反乱が続くキューバへ観戦に行き、インドの北西の辺境で戦い、スーダンでは騎兵の突撃に加わった。その体験を新聞に書き、本にして、名を売った。1899年、ボーア戦争が始まると、新聞の特派員として南アフリカへ渡った。乗っていた装甲列車がボーア人の部隊に襲われて捕虜になったが、首都プレトリアの収容所から脱走し、懸賞金をかけられながら国外へ逃げ延びた。この脱走劇で一躍英雄となり、翌1900年、25歳で下院議員に当選した。
政治家としてのチャーチルは、党を二度変えた。1904年に自由党へ移り、商務相や内相として、職業紹介所や失業保険の創設に関わった。1911年には海相となり、艦船の燃料を石炭から石油に切り替えるなど、海軍の近代化を進めた。第一次世界大戦が始まると、トルコのダーダネルス海峡を突破してオスマン帝国を戦争から脱落させる作戦を推し進めた。だがガリポリ半島への上陸作戦は大失敗に終わり、連合軍は多くの死者を出した(ガリポリの戦い)。チャーチルは責任を問われて海相を辞め、自ら志願して西部戦線で大隊長を務めた。

戦後、チャーチルは保守党へ戻り、1924年から財務相を務めた。だが1930年代には、党の主流と対立して要職から外れた。インドに自治を広げることに強く反対し、ナチス・ドイツの再軍備に警鐘を鳴らし続けた。首相のネヴィル・チェンバレンがヒトラーの要求をのんで戦争を避けようとした宥和政策を、彼は激しく批判した。1938年のミュンヘン会談の後、議会で、我々は戦わずして敗北を喫した、と述べている。この時期は、のちに荒野の時代と呼ばれた。
1939年9月、ドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まると、チャーチルは海相に呼び戻された。1940年5月10日、ドイツ軍が西ヨーロッパへの攻撃を始めたその日、彼は首相になった。65歳だった。3日後、下院で彼は、私が差し出せるのは、血と労苦と涙と汗だけだ、と述べた。それから数週間のうちに、英仏軍はダンケルクの浜から追い落とされ(ダンケルクの撤退)、フランスは降伏した。内閣の中には、ドイツとの和平の道を探るべきだという声もあったが、チャーチルは退けた。我々は海岸で戦い、野で、街頭で戦う、決して降伏しない、と議会で語った。

1940年の夏から秋、ドイツ空軍は英国の上空の制空権を奪おうと、飛行場や都市を連日爆撃した(バトル・オブ・ブリテン)。迎え撃った戦闘機の操縦士たちについて、チャーチルは、人類の戦いの歴史で、これほど多くの人が、これほど少ない人に、これほど多くを負ったことはない、と語った。彼は防空壕から首相官邸の屋上まで出て空襲を眺め、爆撃された街を歩き、指でVの字を作って人々を励ました。
チャーチルは、アメリカを戦争に引き込むことに力を尽くした。1941年8月、大西洋上の軍艦でフランクリン・ローズヴェルトと会い、戦後の世界の原則を掲げた大西洋憲章を発表した。12月に日本が真珠湾を攻撃してアメリカが参戦すると、勝利は確かになったと考えたという。その後も米英ソの首脳会談を重ね、1945年2月にはヤルタ会談でスターリンらと戦後の処理を話し合った。

1945年5月にドイツが降伏した後、7月の総選挙で、チャーチルの保守党は労働党に大敗した。国民は戦争の指導者としての彼を称えながら、戦後の暮らしの再建は、福祉国家を掲げる労働党に託したのである。翌1946年、アメリカのミズーリ州フルトンで、彼は、バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、大陸を横切って鉄のカーテンが降ろされた、と演説した(「鉄のカーテン」演説)。冷戦の始まりを告げる言葉として知られる。
1951年、チャーチルは76歳で再び首相となり、1955年まで務めた。在任中に脳卒中で倒れたが、それは伏せられた。文筆家としても多作で、第二次世界大戦の回顧録や英語圏の国民の歴史を書き、1953年にノーベル文学賞を受けた。絵を描くことも愛し、生涯に500点を超える油絵を残した。1965年1月24日、90歳で死に、国葬で送られた。

英国では、国の危機を救った指導者として、今も最も偉大な英国人の一人に数えられる。一方で、インドの独立運動を率いたガンディーを侮る発言を重ね、1943年に200万から300万人が死んだと推計されるベンガルの飢饉で、食糧を送ることに消極的だったとして、厳しい批判も受け続けている。帝国の時代に育ち、帝国を守ろうとした政治家だった。