アンネ・フランク
概要
隠れ家で2年日記を書き、15歳で収容所で死んだ。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。
関わったできごと(1)
ホロコースト1941年 · 隠れ家で書いた本文
1929年6月12日、ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれた。父オットーは第一次世界大戦にドイツ軍の将校として従軍した商人で、母エーディト、3歳上の姉マルゴーとの4人家族だった。ユダヤ系の、宗教にはそれほど厳格でない中流の家庭である。
1933年1月、ヒトラーが首相になった(ナチスの政権掌握)。ユダヤ人への締め付けが始まると、一家はオランダのアムステルダムへ移った。父はジャムを固めるペクチンを扱う会社を開き、アンネは地元の学校に通ってオランダ語で育った。おしゃべりで目立ちたがりの子だったと、友人たちは振り返っている。

1940年5月、ドイツ軍がオランダに侵攻し、5日で降伏させた。ユダヤ人は公園にも映画館にも入れなくなり、自転車を取り上げられ、ユダヤ人だけの学校へ移された。1942年の春からは、胸に黄色い星を付けることを強いられた。
13歳の誕生日に、赤と白の格子柄の表紙の帳面を贈られた。日記はそこから始まる。その3週間あまり後の7月5日、姉マルゴーに労働収容所への呼び出し状が届いた。一家は翌朝、父の会社の建物の裏手にある隠れ家へ移った。入口は回転する本棚で隠されていた。やがてファン・ペルス一家の3人と、歯科医のフリッツ・プフェファーが加わり、8人が2年余りを狭い部屋で過ごすことになる。食料や本を運び込んだのは、ミープ・ヒースら会社の社員たちだった。

日記に書かれているのは恐怖だけではない。母との衝突、同居人への苛立ち、ファン・ペルス家の息子ペーターへの恋、体の変化への戸惑い。昼間は物音を立てられず、トイレの水も流せない暮らしの中で、将来ジャーナリストか作家になりたいという望みを繰り返し書いている。思春期の記録として読める部分が多い。
1944年3月、ロンドンに亡命していたオランダ政府の大臣が、ラジオで「戦後のために、占領下の日記や手紙を残してほしい」と呼びかけた。これを聞いたアンネは、日記を書き直し始める。戦後に本にすることを考え、題を『隠れ家』とし、登場人物に仮の名を付け、文章を推敲した。作家になるつもりで書いていた。

1944年8月4日、隠れ家はドイツの保安警察に踏み込まれ、8人全員が捕らえられた。誰が密告したのかは、いまも分かっていない。何人もの名が挙がり、調査が重ねられてきたが、決め手は無い。
8人はオランダ東部のヴェステルボルク収容所を経て、9月3日、そこを出た最後の列車でアウシュヴィッツへ送られた。母エーディトはそこで死んだ。アンネとマルゴーは10月末に北ドイツのベルゲン=ベルゼンへ移され、飢えと寒さの中で発疹チフスにかかり、1945年の2月か3月に相次いで死んだ。15歳だった。収容所がイギリス軍に解放される、ひと月から2か月ほど前になる(ホロコースト)。

8人のうち、生き延びたのは父オットーだけだった。アウシュヴィッツで解放され、アムステルダムへ戻った。逮捕の後、ミープ・ヒースは床に散らばった日記を拾い集めて机にしまっていた。娘たちの死が確かめられた後、それを父に渡した。
オットーは日記を本にし、1947年、オランダで『隠れ家』として出版された。母への辛辣な言葉や性に関する記述の一部は、父が初版で削っている。のちに70を超える言語に訳され、日本でも1952年に翻訳が出て広く読まれた。隠れ家は1960年に博物館として公開された。

日記が偽物だという主張は、ホロコーストを否定する人たちから繰り返し出された。オランダの国立戦争資料研究所は筆跡、紙、インクを鑑定し、1986年、本人が書いたものだという報告をまとめている。
殺されたユダヤ人はおよそ600万人とされる。数が大きすぎると、一人ひとりは見えなくなる。この日記は、そのうちの一人が何を考え、何に腹を立て、誰を好きになったかを残した。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。