人物

モロトフ

Vyacheslav Molotov
AD1890年3月9日 – AD1986年11月8日(享年96)
ソ連重要度 3

概要

「ハンマー」。スターリンの最も忠実な部下。1939年、外相になってリッベントロップと署名した。1941年6月22日、開戦をラジオで国民に告げた。「勝利は我々のもの」。妻はユダヤ人で、1948年に離婚し、翌年、彼女は逮捕された。スターリンの死後、二人はまた暮らした。火炎瓶に名を残した。1986年、96歳まで生きた。

関わったできごと(1)

独ソ不可侵条約AD1939年8月23日 · 署名

本文

ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンは、1890年、ロシア中部のヴャトカ県の村で、商店の手代の家に生まれた。中学生の頃から革命運動に加わり、1906年、16歳でボリシェヴィキに入った。逮捕と流刑を繰り返しながら活動を続け、1912年にはボリシェヴィキの新聞『プラウダ』の創刊に関わった。この頃から名乗った党名が「モロトフ」である。ロシア語のモーロト、つまり金槌から取った名だった。

ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ
ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフWikimedia Commons Anefo · CC0

1917年の革命では、ペトログラードで党の指導部の一員として動いた。内戦が終わった1921年、党中央委員会の書記に就き、翌年、ヨシフ・スターリンが書記長になると、その最も忠実な片腕になった。レーニンの死後の権力争いで、モロトフは一貫してスターリンの側に立ち、トロツキーやジノヴィエフ、ブハーリンを追い落とすのに力を貸した。仕事ぶりは勤勉で正確で、疲れを知らなかった。机に何時間でも座り続けて書類を片づける姿から、党の仲間たちは彼を「石の尻」とあだ名したと伝えられる。

1930年、モロトフは人民委員会議の議長、つまり政府の首相になった。農業の集団化が強引に進められた時期で、1932年には自らウクライナに乗り込み、穀物の取り立てを厳しく督励した。その結果起きた大飢饉(ホロドモール)で、数百万人が餓死した。1936年からの大粛清では、処刑する人々の名を連ねた名簿に、スターリンと並んで署名を重ねた。研究者の調べでは、モロトフが署名した名簿は370を超え、スターリン自身の署名した数よりも多いとされる。

ホロドモールに関わる図版:HolodomorKharkiv 1933 Wienerberger
ホロドモールWikimedia Commons Alexander Wienerberger · Public domain

1939年5月、モロトフは外務人民委員、つまり外相を兼ねることになった。前任のリトヴィノフはユダヤ系で、英仏と結んでドイツに対抗する路線の顔だった。その交代は、ソ連がドイツとの取引に踏み出す合図だった。8月23日、モロトフはモスクワでドイツの外相リッベントロップと独ソ不可侵条約に署名した。秘密の付属文書は、東ヨーロッパを両国で分け合うことを定めていた。9月、ドイツに続いてソ連軍もポーランドに攻め込み、モロトフはラジオで、ポーランド国家はすでに存在しなくなったと述べた。翌年3月、ソ連の指導部は捕虜となったポーランド将校らの銃殺を決め、モロトフもその決定に署名している(カティンの森)。

1939年11月、ソ連はフィンランドに攻め込んだ(冬戦争)。ソ連軍が落とした集束爆弾について、モロトフは、ソ連は飢えたフィンランド人にパンを投下しているのだ、と言い張った。フィンランド人はこの爆弾を「モロトフのパンかご」と呼び、それならパンに添える飲み物をと、ソ連の戦車に投げつける火炎瓶を「モロトフ・カクテル」と名づけた。彼の名は、こうして世界中の言葉に残ることになった。

活動家時代のモロトフ
活動家時代のモロトフWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1940年11月、モロトフはベルリンを訪れ、ヒトラーと会談した。夜、イギリス空軍の空襲で、リッベントロップとの会談は防空壕に移された。イギリスはもう終わった、と言うリッベントロップに、モロトフは、ではなぜ我々はここにいて、あの爆弾は誰が落としているのか、と言い返したと伝えられる。

1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に攻め込んだ(独ソ戦の始まり)。その日の正午、国民にラジオで開戦を告げたのは、スターリンではなくモロトフだった。我々の大義は正しい、敵は打ち破られる、勝利は我々のものだ。その言葉は戦争中のソ連の合言葉になった。スターリンが自らラジオで国民に語りかけたのは、11日後のことである。戦争中、モロトフは英米との同盟の交渉に飛び回り、テヘラン、ヤルタ会談、ポツダム会談の首脳会談にスターリンとともに臨んだ。戦後の国際会議では、西側の提案をことごとく拒んだことから、「ミスター・ニェット(いいえ)」と呼ばれた。

ヤルタ会談に関わる図版:Yalta Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) (B&W)
ヤルタ会談Wikimedia Commons US government photographer · Public domain

忠誠の代償は大きかった。妻のポリーナ・ジェムチュジナはユダヤ人で、党の幹部としても活躍していたが、戦後スターリンがユダヤ人への警戒を強めると、目を付けられた。1948年の末、党のためならと彼女が言い出し、二人は離婚した。1949年1月、ポリーナは逮捕され、党の政治局で除名が決められた。モロトフは最初の投票で棄権したが、まもなく自分の誤りを認める手紙を書き、賛成に変えた。ポリーナはカザフスタンへ流刑になった。同じ年の3月、モロトフ自身も外相の職を解かれた。晩年のスターリンは、モロトフを公然と疑うようになっていた。

1953年3月、スターリンが死んだ。葬儀の翌日、ポリーナはモスクワに呼び戻され、夫のもとに帰った。彼女が最初に尋ねたのは、スターリンはどうしているか、だったという。死を知らされた彼女は気を失った。モロトフは外相に復帰したが、権力を握ったフルシチョフと対立した。1956年のフルシチョフの秘密報告によるスターリン批判にも反対し、1957年には他の古参幹部とともにフルシチョフの追い落としを図ったが失敗し、「反党グループ」として指導部から追われた。モンゴル大使、ウィーンの国際原子力機関の代表と遠くへ送られ、1962年には党を除名された。

選挙に臨むスターリン(1937年)
選挙に臨むスターリン(1937年)Wikimedia Commons Pavel Artemyevich Troshkin (1909 – 1944) · Public domain

それでもモロトフは長く生きた。年金生活を送りながら、党への復帰を願い出続け、1984年、94歳のときにようやく党員の資格を回復した。晩年、詩人フェリクス・チュエフに語った長い対話の記録では、1937年の粛清は必要だったと言い切り、最後まで悔いる様子を見せなかった。1986年11月、ゴルバチョフの改革が始まった時代に、96歳で世を去った。革命から改革の時代までを生き抜いた、最後のボリシェヴィキだった。遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地の、妻ポリーナの隣に葬られた。最も多くの死刑の名簿に署名した男の一人が、指導部の誰よりも長く生きたのである。

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