概要
1945年2月19日、アメリカ軍は東京の南千二百キロあまりの硫黄島に上陸した。本土へ向かうB29が、往き帰りに降りられる飛行場が欲しかったのである。司令官の栗林忠道は、島じゅうに地下の坑道を掘らせ、水際での反撃も万歳の突撃も禁じて、一日でも長く持ちこたえるよう命じた。五日で落ちると見られた島は、一か月余り持ちこたえた。守備隊二万人余りのほとんどが死に、アメリカ軍の死傷者は二万六千人を超えて日本側を上回った。摺鉢山に星条旗を立てる兵の写真は、アメリカで戦争の象徴になった。島が返されたのは1968年で、いまも自衛隊の基地があり、元の島民は帰れていない。
場所
24.78°N 141.32°E · 東京都小笠原村
関わった人(1)
栗林忠道AD1891年7月7日–AD1945年3月26日 · 司令官本文
硫黄島は、東京とサイパンのちょうど中ほどにある、火山の小さな島である。サイパンを発って日本を爆撃するB29は、往き帰りに三千キロ近く海の上を飛ぶ。傷ついた機が降りる場所と、護衛の戦闘機の基地として、アメリカはこの島を欲しがった。
司令官の栗林忠道は、アメリカに駐在したことがあり、その国力を知っていた。勝てないことを知ったうえで、本土への攻撃を一日でも遅らせることを目標にした。島じゅうに総延長十数キロの地下の坑道を掘らせ、地熱と硫黄のガスの中で兵は掘り続けた。水際で撃ち返すことも、夜に万歳を叫んで突撃することも禁じた。一人が十人を倒すまで死ぬな、と命じている。
1945年2月19日、アメリカの海兵隊が上陸した。砂浜は火山の灰で足が沈み、隠れた砲がそこを狙った。4日目の23日、島の南の摺鉢山の頂に星条旗が立てられる。その写真は新聞の一面に載り、戦費の国債を売る宣伝に使われて、アメリカの戦争の最も知られた一枚になった。しかし、戦いはそれから一か月続いた。3月26日、残った兵の最後の攻撃で戦いは終わる。栗林の遺体は見つかっていない。
日本の守備隊二万人余りのうち、捕虜になったのは千人に満たなかった。アメリカ軍は六千八百人が死に、傷ついた者を合わせると二万六千人を超えた。死傷者の数でアメリカが日本を上回った、太平洋では珍しい戦いである。戦前には千人ほどの島民がいたが、戦いの前に本土へ移されていた。島は小笠原とともに1968年に日本へ返されたが、自衛隊の基地の島となり、元の島民とその子孫は、いまも住むことを許されていない。地下には、なお一万人ほどの遺骨が残っている。