人物

カール5世

Charles V
AD1500年2月24日 – AD1558年9月21日(享年58)
神聖ローマ帝国重要度 5

概要

ハプスブルク、ブルゴーニュ、カスティーリャ、アラゴンの相続人。19歳で皇帝。スペインとドイツと新大陸を一人で持ち、ルター、フランス、オスマン、教皇と40年戦い、フランス王を捕え、給料の出ない彼の兵がローマを略奪した。疲れて退位し、時計を分解して過ごした。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(1)

カール5世の退位AD1555年10月25日 · 皇帝

本文

カール5世は、1500年2月24日、フランドルの町ヘントに生まれた。父はハプスブルク家のフィリップ美公、母はスペインのカスティーリャとアラゴンの王女フアナである。父方の祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、父方の祖母はブルゴーニュ公国の女相続人マリー。母方の祖父母は、スペインを一つにしたアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベル。4人の祖父母のそれぞれから、別々の大きな遺産が、婚姻と相次ぐ死によってこの一人の子に流れ込むことになった。

1506年、父が急死した。母フアナは夫の死で心の均衡を失ったとされ、のちに「狂女」と呼ばれて、生涯にわたって城に閉じ込められた。6歳のカールはネーデルラントで叔母マルグリットに育てられ、フランス語を話すブルゴーニュの宮廷の騎士道の文化の中で大きくなった。

1516年、母方の祖父フェルナンドが死に、16歳のカールはスペインの王位を継いだ(スペイン王としてはカルロス1世)。だが翌年スペインに渡った若い王はスペイン語をほとんど話せず、フランドル人の側近ばかりを重く用いた。カスティーリャの都市は反発し、1520年に大規模な反乱を起こしたが、翌年に鎮圧された。彼はのちにスペイン語を身につけ、晩年にはスペインを最も愛する国とした。神にはスペイン語で、女にはイタリア語で、男にはフランス語で、馬にはドイツ語で話す、という言葉が彼のものとして伝わるが、確かな出典はない。

1519年、祖父マクシミリアンが死に、皇帝の位をめぐる選挙が行われた。対抗馬はフランス王フランソワ1世だった。7人の選帝侯の票は、金で動いた。カールの陣営が選帝侯たちに配った資金の大半は、アウクスブルクの豪商ヤーコプ・フッガーが貸したものだった(フッガーの選挙資金)。19歳で皇帝に選ばれた彼は、ドイツ、ネーデルラント、スペイン、南イタリア、そして大西洋の向こうの新しい領土を一人で持つことになった。

1521年、ヴォルムスの帝国議会に、教会を批判していた修道士マルティン・ルターが呼び出された。ルターは自説を撤回しなかった。翌日、若い皇帝は、一人の修道士が千年のキリスト教の教えに逆らっているのなら、その修道士が誤っているに違いない、自分は領土も友も命も魂も賭けてこれと戦う、という宣言を自ら書いて読み上げた。だがルターは諸侯にかくまわれ、宗教改革の火はドイツ中に広がった。彼の治世は、この分裂との戦いでもあった。

同じころ、海の向こうでは、彼の名のもとに世界が広がっていた。エルナン・コルテスがアステカを征服し、彼が後押ししたマゼランの船団は1522年に世界一周を果たした(世界一周の達成)。1530年代にはピサロがインカ帝国を倒した。新大陸の銀は、やがて彼と息子の戦争を支えることになる。

世界一周の達成に関わる図版:Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria
世界一周の達成Wikimedia Commons Abraham Ortelius · Public domain

最大の敵はフランス王だった。イタリアの支配をめぐって二人は生涯争った。1525年2月24日、カールの25歳の誕生日に、北イタリアのパヴィアで皇帝軍がフランス軍を破り、フランソワ1世を捕虜にした。フランソワはマドリードに連れて行かれ、領土を手放す条約に署名して釈放されたが、帰国するとすぐに約束を破った。

1526年、カールはポルトガルの王女イサベルと結婚した。政略の結婚だったが、二人の仲はむつまじかった。翌年、跡継ぎのフェリペが生まれた。その1527年の5月、給料をもらえず飢えた皇帝軍のドイツとスペインの兵が、ローマに攻め込んで略奪の限りを尽くした。教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込んで包囲された。皇帝が命じたことではなかったが、キリスト教世界の首都が皇帝の軍に蹂躙されたことは、ヨーロッパに衝撃を与えた。1530年、和解した教皇はボローニャでカールに皇帝の冠を授けた。教皇の手で戴冠した最後の皇帝である。

東からはオスマン帝国が迫っていた。1529年、スレイマン1世がウィーンを包囲し、地中海ではオスマンの提督バルバロッサが北アフリカの港を拠点に暴れ回った。1535年、カールは自ら艦隊を率いてチュニスを落としたが、1541年のアルジェ遠征は嵐で艦隊を失い、惨めに終わった。

1539年、妻イサベルが出産のあとで死んだ。カールは再婚せず、以後は黒い服で通したと伝えられる。のちに隠棲するとき、画家ティツィアーノが描いたイサベルの肖像を持っていった。彼女の生前の姿を見たことのない画家が、別の絵をもとに描いたものだった。

ドイツでは、プロテスタントの諸侯との対立がついに戦争になった。1547年4月、ミュールベルクの戦いで勝った姿を、ティツィアーノは甲冑で馬に乗る堂々とした肖像に描いた。だが勝利は続かなかった。1552年、味方だったザクセンのモーリッツが寝返り、不意を打たれた皇帝は、痛風の体を担架に乗せられて、アルプスのインスブルックから夜の山道を逃げた。1555年、宗教の問題を領主ごとに決めさせるアウクスブルクの和議が結ばれた(アウクスブルクの和議)。カールは、自分の手でこれに署名することを拒み、弟フェルディナントに交渉を任せた。キリスト教世界を一つに保つという生涯の目標は、ここで破れた。

アウクスブルクの和議に関わる図版:Druck Augsburger Reichsfrieden
アウクスブルクの和議Wikimedia Commons User:Michail · Public domain

1555年10月25日、ブリュッセルの宮殿で、55歳のカールは退位を告げた(カール5世の退位)。痛風で歩くのもやっとの皇帝は、若いオラニエ公ウィレムの肩にもたれて立ち、即位以来、ドイツへ、スペインへ、イタリアへ、フランドルへ、アフリカへと絶えず旅をして戦ってきたことを語り、自分の誤りの許しを請うた。聴衆の多くが泣いたと伝えられる。翌年までに、スペインとネーデルラント、イタリアの領土、新大陸を息子のフェリペ2世に、オーストリアの領地と皇帝の位を弟フェルディナントに譲った。一人では持ちきれない帝国は、二つのハプスブルク家に分かれた。

彼はスペイン西部の山あいのユステ修道院のそばに建てた館に移り、時計を集め、時計師と一緒に分解して過ごした。いくつもの時計を同じ時刻に合わせられないのに、どうして人々の信仰を一つにできると思ったのか、と嘆いたという話は、後世の作り話とされる。1558年9月21日、マラリアにかかってそこで死んだ。58歳だった。

彼にはハプスブルク家の人々に特有の、下顎が大きく突き出た顔立ちがあり、口がうまく閉じられず、食べ物を噛むのにも苦労したと伝えられる。若いころの恋で生まれた子のうち、娘のパルマ公妃マルゲリータはのちにネーデルラントの総督になり、晩年にドイツの娘との間に生まれた息子ドン・フアン・デ・アウストリアは、1571年のレパントの海戦でオスマンの艦隊を破る連合艦隊を率いた。

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