バシレイオス2世
概要
5歳で共同皇帝、18歳で親政、49年。結婚せず、本を読まず、戦った。ブルガリアを30年かけて滅ぼし、クレイディオンで1万5000人の捕虜の目を潰して100人に1人だけ片目を残して帰した。「ブルガリア人殺し」。ルーシに妹を嫁がせ、ウラジーミルを改宗させた。彼の死でビザンツは最大で、それから衰えた。
関わったできごと(2)
キエフ・ルーシの改宗AD988年 · 妹を嫁がせたクレイディオンの戦いAD1014年7月29日 · 皇帝本文
バシレイオス2世は、958年、東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝ロマノス2世と皇后テオファノの長男として生まれた。高祖父(祖父の祖父)にあたるのが、マケドニア朝を開いたバシレイオス1世である。2歳になる960年に、父によって共同皇帝の冠を受けた。

だが963年に父が若くして死ぬと、帝位は彼の手には来なかった。母テオファノは名将ニケフォロス2世フォカスと再婚し、ニケフォロスが皇帝になった。969年、そのニケフォロスは寝室で甥のヨハネス・ツィミスケスらに殺され、ツィミスケスが帝位に就いた。少年バシレイオスと弟コンスタンティノスは、殺されることなく名目だけの共同皇帝として宮廷に置かれ続けた。
976年1月にツィミスケスが死に、18歳のバシレイオスはようやく正帝となった。とはいえ、政治を握ったのは大叔父の宦官バシレイオス・レカペノスだった。同じ年、小アジアの大貴族バルダス・スクレロスが帝位を狙って反乱を起こした。宮廷は、かつて自らも反乱を起こした別の大貴族バルダス・フォカスを呼び戻して戦わせ、979年にようやく反乱を抑えた。985年、バシレイオスは大叔父を追放し、自分の手で国を治め始めた。

最初の親征は惨めに終わった。986年、ブルガリアに攻め込んだが、帰り道の山あいの隘路「トラヤヌスの門」で待ち伏せを受け、軍は潰走し、皇帝自身もかろうじて逃れた。この敗北を見て、987年、バルダス・フォカスが今度は自ら皇帝を名乗り、小アジアのほとんどが彼についた。
追い詰められたバシレイオスは北に助けを求めた。キエフの大公ウラジーミル1世が兵を送る代わりに、皇帝の妹アンナを妻に迎える。皇女を異教徒に嫁がせたことのない帝国にとっては破格の条件で、ウラジーミルはキリスト教の洗礼を受けることを約束した(キエフ・ルーシの改宗)。北から来た6000人ほどの戦士の働きで、バシレイオスは反乱軍を破った。989年4月、アビュドスの戦いで、馬を進めたフォカスは両軍の目の前で突然倒れて死んだ。発作だったのか、毒を盛られたのかは分からない。北の戦士たちは、そのまま皇帝の身辺を守るヴァリャーグ親衛隊の始まりになったとされる。

二度の大反乱で、彼は小アジアの大土地貴族を信じなくなった。996年の新法で、貴族が貧しい農民から買い集めた土地を、年月にかかわらず取り戻させることにした。さらに、村で払えない税を近隣の有力者に肩代わりさせる制度も定めた。農民兵が自分の土地を持つことが、帝国の軍と財政を支えると考えていたからである。
11世紀の宮廷の学者プセルロスは、彼の人柄を書き残している。結婚せず、贅沢を嫌い、宝石の飾りもつけない。学問を軽んじ、言葉は少なく、ぶっきらぼうに話した。宮廷の儀式より、兵とともに野営することを好んだ。戦は計算ずくで、陣形を崩すことを許さず、勝っても深追いしなかった。彼の倹約と勝利で、国庫には莫大な金が積み上がった。

彼の治世の大半は、ブルガリアとの戦いに費やされた。相手はブルガリアの皇帝サムイルで、オフリドを都として、いまの北マケドニアやアルバニアの山地から帝国のバルカンの領土を脅かしていた。バシレイオスは毎年のように遠征し、要塞を一つずつ落としていった。戦いはおよそ30年に及んだ。
1014年7月29日、クレイディオンの峠で、ブルガリア軍が築いた防壁を、別働隊が山を越えて背後から突き、勝敗が決した(クレイディオンの戦い)。11世紀の歴史家スキュリツェスによれば、バシレイオスは捕虜1万5000人の両目を潰し、100人に1人だけ片目を残して道案内にさせ、サムイルのもとへ帰した。帰ってきた兵の列を見たサムイルは倒れ、2日後に死んだと伝えられる。捕虜の数には1万4000人とする記録もあり、数は誇張されているという見方もある。

この戦いのあともブルガリアの抵抗は数年続いたが、1018年、最後の皇族が降り、第一次ブルガリア帝国は帝国に組み込まれた。バシレイオスはギリシアを南へ下ってアテネに入り、当時は聖母の教会として使われていたパルテノン神殿で勝利を感謝した。ブルガリアの教会はオフリドの大主教の下に残され、税も従来どおり現物で納めることが許された。征服した土地を締めつけすぎない配慮もあった。
その後、東に転じ、ジョージアの王と戦い、アルメニアの小王国の一部を併合した。彼が「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と呼ばれるようになったのは、死後しばらくたった12世紀ごろからのことである。

1025年12月15日、シチリアをイスラム勢力から取り戻す遠征の準備のさなかに、彼は死んだ。67歳、名目上の在位はおよそ65年に及び、東ローマの皇帝として最も長い。彼は、皇帝が代々眠る聖使徒教会ではなく、都の城壁の外、兵が閲兵を受けたヘブドモンの聖ヨハネ教会に葬られることを望んだ。墓碑には、皇帝として生まれた日から一度も休まず、東へ西へ戦い続けた、という意味の詩が刻まれたと伝わる。
墓のその後には後日談がある。第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪のあと、ラテン人が支配した時代に教会は荒れ果てた。1260年ごろ、都の奪還を目指していたニカイア帝国の兵士たちが廃墟の中に彼の遺骸を見つけたとき、遺骸は羊飼いの笛を口に差し込まれた姿で放置されていたと記録されている。

彼は後継者を育てなかった。帝位を継いだ弟コンスタンティノス8世は政治に関心がなく、その後は姪のゾエとテオドラ、ゾエの夫たちが代わる代わる帝位に就いた。宮廷の貴族が力を取り戻し、彼の残した国庫は使い果たされ、農民兵を守る政策は崩れた。彼の死からわずか46年後、帝国はマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、小アジアの大半を失っていく。帝国の版図は彼の死のときに最も大きく、そこから下り坂が始まった。