ナポレオンのロシア遠征

概要
60万で渡り、モスクワに入り、そこには誰もいなかった。街が焼け、冬に退いた。帰り着いたのは数万人になる。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(1)
ナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · 総指揮本文
1812年6月24日、ナポレオン・ボナパルトが率いる大軍が、ニェメン川を渡ってロシア領に入った。半年後、同じ川を戻ってきた者は、ほんのわずかだった。
ナポレオンとロシアの皇帝アレクサンドル1世は、1807年に講和を結び、手を組んでいた。ナポレオンは、海で勝てないイギリスを経済で締め上げるため、ヨーロッパ大陸の国々にイギリスとの交易を禁じていた。大陸封鎖と呼ばれる。だが穀物や木材をイギリスに売っていたロシアにとって、この禁止は痛手だった。1810年の暮れ、ロシアは中立国の船を受け入れ、イギリスの品が事実上入ってくるようになる。ポーランドをめぐる対立も重なった。ナポレオンは、ロシアを一度の決戦で打ち負かし、もう一度封鎖に従わせようと考えた。
集めた軍は、それまでのヨーロッパの歴史で最大のものだった。最初に川を渡ったのは40万から45万人ほどで、後から加わった兵を含めると60万人前後になる。その半分ほどはフランス人ではなく、ポーランド、ドイツの諸国、イタリア、オーストリア、プロイセンなどから集められた兵だった。「大陸軍」と呼ばれた。
ロシア軍は戦わずに退いた。兵の数で大きく劣り、二つの軍が合流する必要もあった。退くとき、村を焼き、食糧を運び去った。ナポレオンの軍は、補給を現地で調達しながら速く進むやり方で勝ってきた。何も無い土地では、それができない。夏の暑さと、汚れた水と、チフスや赤痢で、兵は戦う前から大きく減っていった。馬も、餌が足りずに次々に倒れた。8月、スモレンスクで戦いがあったが、ロシア軍はまた退いた。

退却を続ける将軍たちへの不満が高まり、皇帝は老将クトゥーゾフを総司令官に任じた。クトゥーゾフは、モスクワの手前、ボロジノで踏みとどまった。9月7日、両軍あわせて25万人ほどがぶつかり、一日で7万人前後が死傷したとされる。この時代で最も血なまぐさい一日の戦いの一つだった。ロシア軍は退いたが、軍は崩れずに残った。ナポレオンが求めた決定的な勝利ではなかった。
9月14日、ナポレオンはモスクワに入った。ほとんどの住民は逃げていて、町は空だった。その夜から火が出て、数日にわたって燃え続け、町の大部分が焼けた。モスクワ総督ロストプチンが火を放つ準備をさせたとされるが、すべてが計画された放火だったのか、占領の混乱で燃え広がったのかについては議論がある。

ナポレオンは焼け残ったクレムリンで、皇帝からの和平の申し出を待った。手紙を送ったが、返事は来なかった。アレクサンドルは、敵が国土にいるかぎり交渉はしないと決めていた。冬が近づき、補給は届かない。5週間待ったのち、10月19日、ナポレオンはモスクワを出た。
ナポレオンは、まだ荒らされていない南の道を通って戻ろうとした。だがマロヤロスラヴェツでロシア軍に阻まれ、来たときの道、すでに食べ尽くされ、焼き尽くされた道を戻るしかなくなった。11月に入ると寒さが厳しくなった。兵は飢え、凍え、隊列から遅れた者はコサックの騎兵や農民に襲われた。馬が死んで大砲を捨て、略奪品を捨てた。

11月の末、ベレジナ川で、ロシア軍に挟まれながら、工兵が冷たい水に入って橋を架けた。軍の一部は渡りきったが、橋が焼かれたあと、多くの兵と付いてきた人々が対岸に取り残された。12月5日、ナポレオンは軍を離れ、そりでパリへ急いだ。留守の都で、彼が死んだという噂を使った陰謀が起きていたからである。
12月半ば、ニェメン川を戻れた兵は、数万人ほどだったとされる。死んだ者、捕虜になった者、逃げた者を正確に分ける記録は無い。フランスの技師ミナールが1869年に描いた有名な図は、モスクワへ向かう太い帯が、帰り道で細い線になって終わる様子を示している。ロシア側の死者も多く、兵だけでなく、焼かれた村の住民も数多く死んだ。
この敗北で、ナポレオンが無敵だという評判は崩れた。翌1813年、プロイセンとオーストリアがロシアの側につき、ライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れる。1814年に退位し、一度は戻るが、1815年のワーテルローの戦いで終わった。
ロシアにとって、1812年は国を挙げて侵略者を追い払った「祖国戦争」として記憶された。半世紀後、レフ・トルストイはこの戦争を舞台に『戦争と平和』を書いた。その中でトルストイは、歴史を動かすのは英雄の意志ではなく、無数の人々の動きの積み重ねだと論じている。