人物

スンジャタ・ケイタ

Sundiata Keita
? – AD1255年頃
マリ帝国重要度 3

概要

マリ帝国を建てた王。口承の叙事詩として語り継がれ、いまも西アフリカで演じられている。

所属

マリ帝国

関わったできごと(1)

マリ帝国の成立AD1235年 · 当人

本文

生まれた年は分からない。13世紀の初め、ニジェール川の上流、いまのギニアとマリの境のあたりに住むマンディンカの人々の小さな国の王家に生まれた。父は王ナレ・ファ・マガン、母はソゴロンという女性で、伝承では、水牛の霊を宿す醜い女として、狩人たちに連れて来られたと語られる。かつてこの地方の北には、金と塩の交易で栄えたガーナ王国があったが(ガーナ王国の金と塩の交易)、11世紀以後衰え、いくつもの勢力が争っていた。

その生涯は、文字ではなく、語り部(グリオ)の口で伝えられた。グリオは王家に仕えて系譜と歴史を語り継ぐ世襲の家系で、その語りは歌と楽器の伴奏とともに、親から子へと受け継がれてきた。いま知られるスンジャタの物語は、そうした語りを20世紀に書き留めたものである。

物語によれば、スンジャタは生まれつき歩けなかった。7歳になっても這って暮らし、父の死後、王位は異母兄が継いだ。異母兄の母は、ソゴロンとその子を侮り続けた。ある日、母が隣の女に葉を分けてもらいに行き、足の立たない息子のことであざけられて帰ってきた。それを聞いたスンジャタは、鍛冶屋に鉄の杖を作らせ、それを握って立ち上がった。重い鉄の杖は、彼の体重で弓のように曲がった、と語られる。そして彼は、母のためにバオバブの木を根ごと引き抜いて持ち帰った。

異母兄の一派に命を狙われ、母と兄弟とともに国を出て、各地を流浪した。北のメマの王のもとで勇敢な戦士に育った、と語られる。そのあいだに、故郷のマンデの地は、南のソソの王スマオロ・カンテに征服された。スマオロは強い魔術を持つ鍛冶の王として語られ、人々を苦しめた。マンデの人々はスンジャタを探し出し、帰って来るよう求めた。

スンジャタは周りの首長たちを味方につけて兵を集め、1235年頃、キリナの戦いでスマオロの軍を破った。物語では、スマオロの魔術を破る秘密を、スンジャタの妹がスマオロのもとに入り込んで聞き出した。白い雄鶏の蹴爪を矢じりに付けた矢がスマオロをかすめると、彼の力は消え、彼は逃げ去って姿を消した、という。こうしてマリ帝国が始まる(マリ帝国の成立)。

建国の後、スンジャタは各地の首長をクルカン・フガという地に集め、国の決まりを定めたとされる。氏族ごとの役割、氏族どうしの関係、そして「人の命は人の命である」「誰も奴隷にされてはならない」といった取り決めを含む「マンデンの憲章」として伝わり、2009年にはユネスコの無形文化遺産にも登録された。ただし、いま読まれている条文は、20世紀の末にグリオたちの語りを聞き取ってまとめ直したもので、13世紀にそのままの形で定められたかどうかは分からない。

スンジャタの名は、文字の記録にも一度だけ現れる。14世紀の北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥーンは、マリの人から聞いた話として、ソソを滅ぼしてマリの支配を打ち立てた王の名を挙げ、25年治めたと書いている。口伝えの物語の中の英雄が、実在した王だったことは、これで確かめられる。死んだのは1255年頃とされ、川で溺れて死んだとする伝承もあるが、はっきりしない。

マリ帝国は、彼のあと金の交易を押さえて大きくなる。100年後の王マンサ・ムーサは、大量の金を携えてメッカに巡礼し、その富でカイロの人々を驚かせた(マンサ・ムーサの巡礼)。イブン・ハルドゥーンによれば、ムーサはスンジャタの兄弟の子孫にあたる。

マンサ・ムーサの巡礼に関わる図版:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Mansa Musa (cropped)
マンサ・ムーサの巡礼Wikimedia Commons attributed to Abraham Cresques · Public domain

1960年、ギニアの歴史家ジブリル・タムシル・ニアヌが、グリオのママドゥ・クヤテの語りをもとに『スンジャタ』をフランス語で出版し、物語は世界に知られた。マリが独立したのと同じ年である。いまも西アフリカでは、グリオがコラという弦楽器を奏でながら、この物語を語り続けている。800年近く、口から口へ伝えられてきた一人の王の物語である。

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