できごと

アムリトサル虐殺

Jallianwala Bagh massacre
AD1919年4月13日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国Anglo-Egyption Sudanモンゴル新疆Arabia (Nejd)ペルシアオスマン帝国チベットAbyssiniaエチオピア帝国エジプトアフガニスタンフランス領インドシナBritish Protectorateラタナコーシン朝(シャム)グレートブリテン及びアイルランド連合王国イギリス領ソマリランドマラヤネパールイタリア領ソマリランドエリトリアアゼルバイジャンジョージアセイロンAD1919年4月13日アムリトサル
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1919年4月13日の版図を描いています(27勢力)。

概要

広場に集まった非武装の群衆へ発砲した。この事件が、穏健な協調路線を独立運動へ変える。

場所

アムリトサル
31.63°N 74.87°E · インド・パンジャブ州

本文

第一次世界大戦で、インドはイギリスのために100万人を超える兵を海外へ送り、多額の戦費を負担した。インドの政治家の多くは、その見返りに自治が広がると期待していた。ところが戦争が終わった1919年、イギリスはローラット法を定めた。反政府活動の疑いがあれば令状なしに逮捕し、裁判なしで拘禁できるという法律である。

ガンディーはこれに反対し、4月6日に全国で仕事を止めて抗議する運動を呼びかけた。北西部パンジャーブの町アムリトサルでも抗議が広がった。4月10日、地元の指導者二人が逮捕されて町から連れ去られると、群衆が役所や銀行を襲い、ヨーロッパ人5人が殺された。イギリス人の女性宣教師が自転車で通りかかったところを襲われる事件も起きた。町には軍が送り込まれ、ダイヤー准将が指揮を執った。

アムリットサル虐殺事件現場の慰霊碑
アムリットサル虐殺事件現場の慰霊碑Wikimedia Commons Public domain

この数日前、アムリトサルではヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が一緒に祭りの行列を行い、宗派を越えた結束を示していた。植民地の当局は、宗派ごとに分かれていたはずの人々が手を結ぶことを、何より警戒していた。パンジャーブ州知事のオドワイヤーは、反乱の兆しだと考えていた。

4月13日は、パンジャーブの人々が祝う春の収穫祭バイサーキーの日だった。アムリトサルはシク教の聖地で、黄金寺院に近いジャリヤーンワーラー庭園には、祭りに来た村人や、抗議の集会に来た人々が1万人以上集まっていたとされる。その朝、ダイヤーは集会を禁じる布告を出していたが、町の一部で読み上げられただけで、知らずに来た人も多かった。

虐殺から数か月後、1919年のジャリヤーンワーラー・バーグ
虐殺から数か月後、1919年のジャリヤーンワーラー・バーグWikimedia Commons Public domain

庭園は周りを建物の壁に囲まれ、出入り口は狭い通路がいくつかあるだけだった。夕方、ダイヤーはグルカ兵などからなる約90人の兵を率いて入り口をふさぎ、警告もなしに発砲を命じた。兵たちは人が密集しているところや、出口に殺到する人々を狙って撃ち続けた。射撃はおよそ10分間続き、1650発が撃たれたとされる。弾がほぼ尽きたところで、ダイヤーは兵を引き上げた。負傷者の手当てはされず、夜間外出禁止令のために家族も遺体を引き取りに行けなかった。

公式の調査による死者は379人、負傷者は1200人ほどとされた。インド国民会議の調査は、死者を1000人前後と推計している。逃げ場を失って庭の井戸に飛び込んだ人も多く、その井戸はいまも記念の場所として残っている。

罰として手足をついて這わされたインド人たち(1919年)
罰として手足をついて這わされたインド人たち(1919年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その後、パンジャーブには戒厳令が敷かれた。女性宣教師が襲われた通りでは、インド人に腹ばいで進むことを強いる命令が出され、公開のむち打ちも行われた。

翌年、事件を調べた委員会で、ダイヤーは群衆を解散させるためではなく、パンジャーブ全体に強い印象を与えるために撃ったと証言した。装甲車の機関銃が入り口を通れれば使っていただろう、とも述べた。ダイヤーは軍の職を解かれたが、処罰はされなかった。イギリス本国では彼を擁護する声も強く、保守系の新聞が呼びかけた募金には多額の金が集まった。一方で、陸軍大臣だったチャーチルは議会で、この事件を「途方もなく恐ろしい出来事」と非難している。

ジャリヤーンワーラー・バーグの「殉教者の井戸」。碑文によれば120の遺体が引き上げられた
ジャリヤーンワーラー・バーグの「殉教者の井戸」。碑文によれば120の遺体が引き上げられたWikimedia Commons Amitoj911 · Public domain

調査委員会にはインド人の委員も加わっていたが、ダイヤーの行動をどこまで責めるかをめぐって意見が割れ、インド人の委員は別に少数意見を出した。インド国民会議は独自に調査団を作り、ガンディーもその一員として、生き残った人々から証言を集めた。ダイヤーは1927年に病で死んだ。

インドの側の衝撃は大きかった。詩人のラビンドラナート・タゴールは、事件の知らせを受けて、イギリス国王から授かったナイトの称号を返上した。総督にあてた手紙で、この恥辱の中で栄誉の印を身につけることはできないと書いている。

ガンディーは、それまでイギリスに協力しながら権利を広げる道に望みをつないでいた。戦争中には、インド人に兵として志願するよう呼びかけてもいた。この事件とその後の処理を見て、ガンディーはイギリスの支配そのものに正義は無いと考えるようになる。1920年、ガンディーは勲章を返し、国民会議派を率いて、イギリスの製品や学校、裁判所、役職を拒む非協力運動を始めた。運動は都市の知識人だけでなく、農村の大衆にまで広がった。のちの塩の行進を経て、インドの独立へと続く道の出発点の一つが、この庭園だった。

塩の行進に関わる図版:Marche sel
塩の行進Wikimedia Commons Yann ( talk ) · Public domain

事件は長い影を落とした。1940年、事件当時のパンジャーブ州知事オドワイヤーが、ロンドンでインド人の青年ウダム・シンに射殺された。ウダム・シンは事件の日に庭園にいたと語っていたが、確かなことは分かっていない。

イギリス政府は今日まで公式に謝罪していない。2013年に首相キャメロンが「深く恥ずべき出来事」と述べ、2019年の100年の節目には首相メイが議会で「深い遺憾」を表明したが、謝罪の言葉は避けた。庭園の壁には、いまも弾痕が残されている。独立後の1951年、庭園は国の記念の場所として整えられた。1997年にはエリザベス女王が訪れて献花している。

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