← 地図で見る
Person / 人

チャールズ・ゴードン

Charles George Gordon
AD1833年1月28日 – AD1885年1月26日(享年51)
イギリス重要度 4

概要

工兵将校。クリミア、そして中国(太平天国を鎮圧した「常勝軍」を率いて「チャイニーズ・ゴードン」)。エジプトのスーダン総督として奴隷交易を取り締まった。信仰が篤く、規律が厳しく、命令に従わなかった。1884年、住民の撤退のために送られて、残った。10か月の籠城の後、宮殿の階段で死んだ。ロンドンは彼を殉教者にし、その世論がスーダン征服を求めた。

関わったできごと(1)

ハルツームの陥落AD1885年1月26日 · 死んだ

本文

1833年1月28日、ウーリッジ。砲兵の将軍の家の4男。ウーリッジの士官学校、工兵。

クリミア戦争(1855年、セヴァストポリ。塹壕の設計)。1860年、中国。第二次アヘン戦争の末期に着き、円明園の焼き討ちを見た(「言葉にできないほど悲しかった」と手紙に書いた。同時に、略奪品を一つ持ち帰った)。

1863年、太平天国。上海の商人が金を出して作った傭兵部隊「常勝軍」(アメリカ人ウォードが作り、戦死した後)を、30歳で引き継いだ。清朝の側で戦った。3000人。18か月で、蘇州を含む多くの城を取った。彼は戦場で、武器を持たず、藤の杖だけを持って歩いた(兵は「ゴードンの魔法の杖」と呼んだ)。1863年12月、蘇州が降伏したとき、李鴻章が投降した太平天国の王たち8人を処刑した(ゴードンが安全を保証した後で)。彼は激怒して、李鴻章を撃ちに探し回り、部隊の指揮を一時放棄した。「チャイニーズ・ゴードン」。

イギリスに戻って、グレーヴゼンドの要塞の工事監督(1865〜71年)。この6年、彼は自分の家に貧しい少年を住まわせ、洗い、服を着せ、字を教え、船の職を見つけて送り出した(「カラシの種」と呼んだ)。壁に、送り出した少年たちの船の位置を示す地図を貼っていた。生涯、結婚しなかった。

1874年、エジプトのヘディーヴに雇われて、赤道州(スーダン南部)の総督。1877〜79年、スーダン総督。奴隷交易の取り締まり。ラクダで砂漠を横断し、単身で部族の陣営に入り、奴隷商人を捕らえた。エジプトの役人の腐敗と衝突して、辞めた。

その後、インド、中国(1880年、再訪。清露の緊張を仲裁しようとした)、モーリシャス、南アフリカ(バストランド)、パレスチナ(1883年、1年。聖書の研究。エルサレムの城壁の外の丘が、髑髏に見えることから、「ゴードンのカルヴァリ」と「園の墓」を、キリストの墓の候補として提唱した。プロテスタントの巡礼地として、いまもある)。

1884年1月18日、政府の要請でロンドン駅を発った。任務は、スーダンのエジプト人守備隊と役人と家族(1万5000人以上)の撤退の監督。彼は道中で、任務の解釈を広げた(「撤退させるだけでは、混乱を残す。後継の政府を作らなければ」)。

2月18日、ハルツーム着。歓迎された。2500人ほどを北へ送った。それから、彼は撤退をやめ、援軍を要求し、「マフディーを叩くべきだ」と打電した。政府(グラッドストン)は拒んだ。3月から、電信線が切られ、包囲が始まった。

10か月。彼は日記を書いた。「私は、私の国が、私を見捨てたとは言わない。ただ、私は、ここにいる人々を見捨てることはできない」。城壁を修理し、蒸気船を装甲し、紙幣を自分の署名で発行し、勲章を作って配った。屋上から望遠鏡で、援軍の煙を探した。

1885年1月26日、未明。城壁が抜かれた。ゴードンは総督府にいた。証言は分かれる(階段で軍服を着て、剣を持たずに立っていて、槍で刺された、というのが広まった絵。ジョージ・ジョイの絵『ゴードンの最期』1893年)。首が切られ、マフディーの陣に運ばれた。

救援隊の先遣(蒸気船2隻)は、1月28日の朝、ハルツームの前に着き、ズールー旗が翻っているのを見て、砲撃を受けながら引き返した。

ロンドンは、彼を殉教者にした。トラファルガー広場に像(1888年)が立ち、学校が彼の名で作られ、13年後、キッチナーが「ゴードンの復讐」としてスーダンを征服した。

リットン・ストレイチー『ヴィクトリア朝の名士たち』(1918年)が、この像を崩した。信仰と、酒と、名誉欲と、死への傾きを持つ、複雑な男として書いた。