ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トム
概要
チャンパにアンコールを焼かれた4年後、王が奪い返して仏教徒の王になった。城壁の都アンコール・トム。中央にバイヨン。四面の顔が200。病院102、宿駅121。「民の病は王の病」。クメールの最大版図で、最後の大王。
場所
13.41°N 103.87°E · カンボジア
関わった人(1)
ジャヤーヴァルマン7世AD1122年頃–AD1218年頃 · 王本文
12世紀のアンコールは、東南アジア大陸部で最も強大な王国の都だった。前の世紀の前半、スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットを築き、アンコールの隆盛の時代を開いた。だがその死後、王国は内紛と隣国との戦いで揺らいだ。東の隣国、いまのベトナム中部に栄えたチャンパとミーソンの国チャンパとは、長く争いが続いていた。
1177年、チャンパの軍が、思いもよらない道からアンコールを襲った。メコン川を遡り、大きな湖トンレサップを船で渡って、都の近くに上陸したのである。都は略奪され、焼かれ、王トリブヴァナーディティヤヴァルマンは殺された。アンコールの王国は、建国以来の屈辱を味わった。
このとき立ち上がったのが、のちのジャヤヴァルマン7世である。王族の一人で、1120年代の生まれとされる。若い頃にはチャンパの地に遠征していたとされ、王位をめぐる混乱の中で表に立たずにいたが、都の陥落を知ると兵を集めて戻った。数年にわたる戦いの末、彼はチャンパの軍を追い払った。トンレサップの湖上での水軍の戦いは、のちにバイヨンの回廊の浮彫に生き生きと刻まれた。1181年、ジャヤーヴァルマン7世はアンコールで王位についた。すでに50代の後半だった。
それまでのアンコールの王の多くは、シヴァやヴィシュヌを信じるヒンドゥー教の王だった。ジャヤヴァルマン7世は、大乗仏教を篤く信じた。とりわけ、人々の苦しみを救う観世音菩薩を崇めた。

王はまず、二度と都を落とされないよう、新しい都を築いた。それがアンコール・トム、「大きな都」である。一辺およそ3キロの正方形を、高さ8メートルほどのラテライトの城壁と、幅の広い堀が囲む。城門は五つあり、門の塔の上には、四方を向いた巨大な顔が彫られている。門へ続く堀の橋の両側には、神々と阿修羅がそれぞれ大蛇の胴を抱えて引き合う像が並ぶ。ヒンドゥーの神話の「乳海攪拌」の場面で、天と地を結ぶ虹の橋にもなぞらえられる。
都のちょうど中心に建てられたのが、バイヨンである。もとは50を超える塔が林立していたとされ、そのほとんどの塔の四面に、穏やかな微笑みをたたえた大きな顔が刻まれた。顔の数は200近くにのぼる。この顔が観世音菩薩なのか、菩薩と一体になった王自身なのかは、研究者の間でも見方が分かれる。両方の意味を重ねたものだと考える人も多い。回廊の壁には、チャンパとの戦いと並んで、市場で物を売る人々、闘鶏に興じる人々、子を産む女性、魚を獲る漁師など、当時の暮らしの場面が細かく彫られている。

王はほかにも、驚くほど多くの寺院を建てさせた。1186年には母のための寺タ・プロームを建て、母を智慧の女神、般若波羅蜜として祀った。1191年には父のための寺プリヤ・カーンを建て、父を観世音菩薩として祀った。人工の池の中に建つニャック・ポアン、バンテアイ・クデイなども、この王の時代のものとされる。タ・プロームの碑文には、寺を支えるために3000を超える村と、8万人近い人々が仕えていたことが記されている。
ジャヤヴァルマン7世が特に知られるのは、人々のための施設を国中に作ったことだ。碑文によれば、王国の各地に102の病院を建て、医師や看護の人を置き、米や蜂蜜、薬を配った。また、都から各地へ延びる王の道に沿って、121の宿駅を設けた。「火の家」と呼ばれる施設である。病院に置かれた碑文には、人々の体の病は王の心の病であり、王を苦しめるのは自分の苦しみではなく人々の苦しみである、という意味の言葉が刻まれている。

王の力は国の外にも及んだ。1190年、ジャヤヴァルマン7世は逆にチャンパに攻め込み、その都を落とした。チャンパはその後しばらくアンコールの支配下に置かれる。王の道は、北はいまのタイのピマーイ、東はベトナムの方へと延び、王国の勢力は、いまのタイやラオスの一部にまで広がった。アンコールの王国の領域が最も広がったのは、この王の時代だったとされる。
これだけの建物を、王は即位からの30年あまりのうちに築かせた。そのため石の積み方や彫りが荒い部分も多く、急いで建てたことがうかがえる。膨大な数の人々が、石を切り、運び、積むために駆り出されたはずである。王の慈悲の言葉の陰には、そうした人々の重い負担もあった。

ジャヤヴァルマン7世は1218年頃に死んだとされる。90歳を超えていたとする見方もある。彼の後、アンコールにはこれほどの規模の建設を行う王は現れなかった。13世紀の後半には、ヒンドゥー教に立ち返った王のもとで、多くの寺院の仏像が削り取られ、ヒンドゥーの神の像に彫り直された。プノンペンの国立博物館には、目を閉じて静かに座る男の像が残されている。ジャヤヴァルマン7世の姿を写したものと考えられており、「瞑想する王」と呼ばれる。
1296年、元の使節に随行してアンコールを訪れた周達観は、『真臘風土記』に、金色に輝く塔や、窓辺に姿を見せる王の様子を書き残した。王国はなお豊かだった。だが14世紀になると、西に興ったアユタヤ朝の成立が力を強め、1431年頃のアユタヤの攻撃をきっかけに、王たちはアンコールを離れて南へ都を移したとされる。森に包まれた都がヨーロッパで広く知られるようになるのは、1860年にフランスの博物学者アンリ・ムオが訪れ、その記録が出版されてからのことである。バイヨンの顔は、いまもどの方角に向かっても、静かに微笑んでいる。