できごと

クレシーの戦い

Battle of Crécy
AD1346年8月26日
重要度 5
クレシーの戦いに関わる図版:Battle of crecy froissart
Battle of crecy froissart Wikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

概要

イングランドの長弓兵が、フランスの騎士とジェノヴァの弩兵を丘の上から射倒した。騎士の時代の終わりの始まり。16歳の黒太子が前線で戦い、父は「息子に拍車を得させよ」と援軍を送らなかった。

場所

クレシー
50.25°N 1.88°E · フランス・ソンム県

関わった人(2)

エドワード3世AD1312年11月13日–AD1377年6月21日 · 王エドワード黒太子AD1330年6月15日–AD1376年6月8日 · 16歳

本文

1346年7月12日、イングランド王エドワード3世は、1万数千の軍を率いてノルマンディーのコタンタン半島に上陸した。フランス王位を自ら要求して始めた戦争、のちに百年戦争と呼ばれる戦いの、初めての本格的な大陸侵攻だった。軍の中には、16歳になったばかりの王太子エドワード、のちにエドワード黒太子と呼ばれる若者もいて、上陸のその場で騎士に叙された。

イングランド軍は町や村を焼き、奪いながら進んだ。7月下旬にはカーンを攻め落とし、多くの市民が殺された。セーヌ川に沿って東へ進むと、フランス王フィリップ6世が大軍を集めて追ってきた。橋はあらかじめ壊されていたが、イングランド軍はパリの近くで橋を修理して渡り、北へ向かった。8月24日、ソンム川の河口近くの浅瀬を、引き潮の間に、対岸の守備兵を押し切って渡った。

クレシーの戦いでの接近戦
クレシーの戦いでの接近戦Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

8月26日、エドワード3世はクレシーの村の近く、森を背にした緩やかな丘に陣を敷いた。兵を三つの隊に分け、右の隊を王太子に任せた。騎士たちは馬を降り、歩兵として弓兵の間に並んだ。長弓兵は隊の両脇や前に、斜めに張り出すように置かれた。兵力はイングランド側がおよそ1万2000から1万5000、フランス側はその2倍前後とされるが、数は記録によって大きく異なる。

長弓は、人の背丈ほどもあるイチイの弓である。引くには強い力と長年の訓練が要り、イングランドの王は農民に弓の稽古を奨励していた。熟練の射手は1分に十本前後の矢を放つことができたとされ、その速さで、巻き上げに時間のかかる弩をはるかに上回った。弓兵の多くは、ウェールズやイングランドの各地から集められた庶民だった。

イングランド王エドワード3世
イングランド王エドワード3世Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

フランス軍は行軍の疲れを残したまま、夕方になって戦場に着いた。先頭に立ったのは、雇われたジェノヴァの弩兵だった。年代記によれば、直前に夕立があり、弩の弦が湿って緩んでいたとも、身を守る大盾が後方の荷車に残っていたとも伝えられる。弩兵が射撃を始めると、丘の上から長弓の矢が雨のように降り注いだ。弩兵は射程でも速さでも及ばず、崩れて退いた。

これを見たフランスの騎士たちは、弩兵を臆病者と罵り、退く彼らを踏み越えて突撃した。フィリップ6世が、道をふさぐ者は斬れと命じたとも伝えられる。騎士の突撃は丘の斜面を登る間に矢を浴び、馬が倒れて後続の足を止めた。それでもフランスの騎士は、夜になるまで十五回とも十六回とも言われる突撃を繰り返した。陣形を崩さずに待ち受けたイングランドの下馬騎士と槍兵が、たどり着いた者を討った。

イングランドのロングボウで鎧を貫くために使われたボドキン鏃の現代の複製
イングランドのロングボウで鎧を貫くために使われたボドキン鏃の現代の複製Wikimedia Commons Boneshaker · Public domain

戦いの中で、一人の盲目の王が死んだ。フランスに味方したボヘミア王ヨハンである。彼は家臣に、自分を戦いの中へ連れて行けと命じた。騎士たちは互いの馬の手綱を結び合わせ、王を真ん中にして突撃した。翌朝、王と騎士たちは結ばれたまま倒れていたと、年代記作者のフロワサールは書く。王太子がヨハンの三枚の羽根の紋章と、ドイツ語で「私は仕える」を意味する標語を受け継いだという話はよく知られている。イングランドの皇太子の記章にいまも使われているが、この由来は後世の伝承とされる。

フロワサールはもう一つの場面を伝えている。王太子の隊が激しい攻撃を受け、援軍を求める使者が、風車の上から戦場を見ていたエドワード3世のもとへ来た。王は、息子は死んだのか、倒れたのか、と尋ね、そうではないと聞くと、援軍は送らないと答えた。今日の栄誉は息子のものにさせよ、息子に拍車を得させよ、と。拍車は騎士の身分のしるしであり、この言葉は若い王子に手柄を立てさせる父の言葉として知られている。

架台式の壺型銃を発射する兵士(ウォルター・デ・ミレメーテ『高貴と知恵と王の慎重について』、1326〜27年)
架台式の壺型銃を発射する兵士(ウォルター・デ・ミレメーテ『高貴と知恵と王の慎重について』、1326〜27年)Wikimedia Commons Walter de Milemete · Public domain

フランス側の損害は大きかった。王の弟アランソン伯、ロレーヌ公、フランドル伯、ブロワ伯をはじめ、多くの大貴族が戦死した。翌日、イングランドの伝令が戦場で数えた騎士以上の死者は1500人を超えたと伝えられる。兵の死者はそれよりはるかに多かったが、数ははっきりしない。イングランド側の死者は数百人ほどにとどまったとされる。

この戦いでは、イングランド軍が小型の大砲を使ったとする記録がある。イタリアの年代記作者ヴィッラーニなどが書き残しているが、どれほど使われ、どれほど効いたのかは分からない。音で馬を驚かせた程度だったとも言われる。ヨーロッパの野戦で大砲が使われた最も早い例の一つとして挙げられることが多い。

イタリアのクロスボウ兵(ラッツァロ・タヴァローネ画)
イタリアのクロスボウ兵(ラッツァロ・タヴァローネ画)Wikimedia Commons Lazzaro Tavarone (1556–1641) · Public domain

フィリップ6世は負傷し、夜の闇の中を少数の供と逃れた。たどり着いた城の門を叩き、開けよ、ここにいるのはフランスの不運な王だ、と名乗ったとフロワサールは書く。勝ったエドワード3世は北へ向かい、港町カレーを囲んだ。包囲は1年近く続き、1347年8月、飢えたカレーは降伏した。町を救うために命を差し出した6人の市民の話は、のちにロダンの彫刻『カレーの市民』になった。カレーはその後200年あまり、イングランドの大陸の足場となる。

クレシーの戦いは、規律ある歩兵と弓兵が、馬上の騎士の突撃を打ち破れることを示した。10年後のポワティエの戦い(1356年)では、黒太子がフランス王ジャン2世を捕らえ、1415年のアジャンクールでも長弓が勝敗を決める。騎士の時代の終わりの始まりと言われるのはそのためだが、騎士がすぐに消えたわけではなかった。戦争はなお100年続き、その間に黒死病がヨーロッパを襲い、最後はジャンヌ・ダルクの現れたフランスが巻き返すことになる。

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