セリム1世のエジプト征服

概要
父を退位させ、兄弟を殺し、チャルディラーンでサファヴィー朝を破ったセリムが、マルジュ・ダービクとリダーニーヤでマムルーク朝を鉄砲で潰した。マムルークは鉄砲を卑怯だと言った。最後のスルタン、トゥーマーン・バイはカイロの門に吊るされた。シリア、エジプト、メッカとメディナ。アッバース朝のカリフの称号を得た、と伝える。8年で領土を倍にした。「冷酷者(ヤヴズ)」。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
セリム1世AD1470年10月10日–AD1520年9月22日 · 征服した本文
1517年1月22日、カイロの北の郊外リダーニーヤで、オスマン帝国のスルタンセリム1世の軍が、マムルーク朝の最後の軍を打ち破った。数日の市街戦のあと、カイロはオスマンの手に落ちた。2世紀半以上にわたってエジプトとシリアを治め、イスラーム世界の中心を自負してきたマムルーク朝は、ここに滅びた(マムルーク朝)。前の年のシリアでの勝利とあわせて、オスマン帝国は東地中海の沿岸からナイル川の流域、そしてメッカとメディナまでを手に入れた。
マムルーク朝の「マムルーク」とは、買われてきた奴隷の軍人のことである。中央アジアのトルコ系の人びとや、カフカスのチェルケス人の少年たちが奴隷として買われ、イスラームの教育と厳しい軍事訓練を受けて騎兵に育てられた。彼らは主人のもとで解放されて軍人となり、その中から実力でスルタンが選ばれた。スルタンの子が必ずしも後を継がず、次の世代もまた新しく買われた奴隷から育てられるという、世界の歴史でも珍しい仕組みの国だった。13世紀半ばに興ったこの王朝は、1260年のアイン・ジャールートの戦いで西へ攻め寄せるモンゴル軍を初めて打ち破り、1291年のアッコンの陥落で十字軍の最後の拠点を落とした。1258年にモンゴルがバグダードを滅ぼしたあと(バグダードの陥落)、アッバース家の生き残りをカイロに迎えてカリフに立て、メッカとメディナの守護者を名乗った。首都カイロはイスラーム世界で最も大きく、最も栄えた都市の一つだった。

だが16世紀の初めには、その力は衰えていた。インド洋の香辛料貿易で得ていた富は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路以来インド洋に乗り出してきたポルトガルに脅かされていた。そしてマムルークの軍は、誇り高い騎兵の伝統に固執し、鉄砲と大砲を十分に取り入れていなかった。弓と槍と剣で馬上から戦うことこそ戦士の技であり、誰でも撃てる火器は卑しいものだ、という考えが根強かったとされる。
一方、北のオスマン帝国では、1512年、父のバヤズィト2世を退位させて玉座に就いたセリム1世が、兄弟とその子どもたちを次々に殺して地位を固めていた。後世の人は彼を「ヤヴズ(冷酷者)」と呼んだ。セリムがまず向かったのは東のサファヴィー朝だった。イランに興ったこの新しい王朝は、シーア派の信仰を掲げてアナトリアの遊牧民たちを引きつけ、オスマンの足元を揺さぶっていた。1514年8月、セリムはチャルディラーンの戦いで、大砲とイェニチェリの鉄砲によって、シャー・イスマーイール1世の騎兵を打ち破った。

マムルーク朝は、オスマンとサファヴィーの間で揺れていた。セリムがサファヴィー朝と再び戦うために東へ向かうと、マムルーク朝のスルタン、カーンスーフ・ガウリーは軍を率いて北シリアに出た。1516年8月24日、アレッポの北のマルジュ・ダービクで両軍はぶつかった。マムルークの騎兵は勇敢に突撃したが、オスマンの大砲と鉄砲の前に崩れ、さらに味方の将軍の一部が寝返った。70代半ばの老スルタンは乱戦の中で倒れて死んだ。落馬したとも、発作を起こしたとも伝えられる。オスマン軍は無血に近い形でアレッポ、ダマスクス、エルサレムへと進んだ。
カイロでは、ガウリーの甥のトゥーマーン・バイが新しいスルタンに推された。彼は大砲を集め、カイロの北のリダーニーヤに陣を築いて敵を待った。セリムは冬のシナイ半島の砂漠を、水を運ばせながらわずか2週間ほどで渡り切った。1517年1月22日、決戦が始まった。トゥーマーン・バイの大砲は正面に向けて据え付けられていたが、オスマン軍は陣地の脇へ回り込んで攻撃し、戦いは短時間で決着した。それでもトゥーマーン・バイは屈しなかった。カイロの街に入ったオスマン軍に夜襲をかけ、通りから通りへと激しい戦いが数日続いた。その後もナイルの流域で抵抗を続けたが、身を寄せた遊牧民の首長に裏切られて捕えられた。4月、彼はカイロのズウェイラ門で絞首刑にされた。同時代のカイロの歴史家イブン・イヤースは、縄が二度切れ、三度目にようやく息絶えたと書き、民衆が最後のスルタンのために泣いたことを記している。

セリムはカイロにおよそ8か月とどまった。その間に、カイロの腕のよい職人や学者、そしてマムルーク朝が保護してきたアッバース家のカリフ、ムタワッキル3世をイスタンブールへ送った。のちに、このときムタワッキルがカリフの位をセリムに譲ったという話が語られるようになる。だが同時代の記録にその証拠はなく、この話が広まったのは18世紀の後半のことだ。ロシアとの戦争に敗れた帝国が、1774年の講和条約で、失ったクリミアのムスリムに対するスルタンの宗教的な権威を主張する必要に迫られ、その裏付けとして持ち出されたものと考えられている。確かなのは、メッカの太守がセリムのもとへ聖都の鍵を送り、セリムが「二つの聖なる都の守護者」の称号を名乗ったことである。
征服の意味は大きかった。セリムがシリア、エジプト、アラビア半島の西岸を手に入れたことで、オスマン帝国の領土は彼の8年ほどの治世の間に大きく広がった。それまでのオスマン帝国は、バルカンとアナトリアを中心とする、キリスト教徒の臣民の多い国だった。それが、アラビア語を話すムスリムの土地と、イスラームの聖地を抱える帝国へと性格を変えた。エジプトの穀物と税収は帝国の財政を潤し、イスラーム世界の政治と学問の中心は、カイロからイスタンブールへ移っていった。

もっとも、マムルークという存在そのものは消えなかった。オスマン帝国はエジプトに総督を置いたが、実際の地方の支配にはマムルークの有力者たちを使い続けた。彼らは次第に力を取り戻し、18世紀には事実上エジプトを動かすまでになる。1798年にナポレオンのエジプト遠征でフランス軍と戦ったのも、このマムルークたちだった。
セリムは1520年、次の遠征の準備中に病に倒れ、50歳ほどで死んだ。死因については、皮膚の腫れ物の悪化、ペスト、癌などの説がある。後を継いだ息子のスレイマン1世は46年に及ぶ治世のあいだにハンガリーを破り(モハーチの戦い)、ウィーンを包囲して、帝国を最盛期に導く。その力の土台の一つは、父が冷酷なまでの速さで手に入れた、エジプトとアラブの土地だった。