概要
父を退位させ、兄弟を殺し、チャルディラーンでサファヴィー朝を破ったセリムが、マルジュ・ダービクとリダーニーヤでマムルーク朝を鉄砲で潰した。マムルークは鉄砲を卑怯だと言った。最後のスルタン、トゥーマーン・バイはカイロの門に吊るされた。シリア、エジプト、メッカとメディナ。アッバース朝のカリフの称号を得た、と伝える。8年で領土を倍にした。「冷酷者(ヤヴズ)」。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
セリム1世AD1470年10月10日–AD1520年9月22日 · 征服した本文
マムルーク朝は1250年からエジプトとシリアを持っていた。奴隷(マムルーク)の軍人が、次の奴隷を買って育て、スルタンになる。モンゴルを止め(アイン・ジャールート)、十字軍を追い出した(アッコ)。カイロはイスラーム世界で最大の街。メッカとメディナの守護者。しかし、鉄砲を嫌った。「弓と剣で戦うのが騎士だ」。
セリムは1514年8月、チャルディラーンでサファヴィー朝のイスマーイール1世を鉄砲と大砲で破った。1516年、シリアへ。マムルーク朝のスルタン、カーンスーフ・アル・ガウリー(75歳)が軍を出した。8月24日、アレッポの北、マルジュ・ダービク。オスマンの大砲とイェニチェリの鉄砲。マムルークの騎兵は突撃して、撃たれた。ガウリーは戦場で倒れて死んだ(脳卒中とも)。アレッポ、ダマスクス、エルサレム。
カイロで、トゥーマーン・バイ2世が新しいスルタン。ヨーロッパから大砲を買って、要塞を作った。セリムはシナイ砂漠を渡った(13日)。1517年1月22日、カイロの北のリダーニーヤ。トゥーマーン・バイの大砲は固定されていて、セリムは横から回った。3時間。カイロ。市街戦、3日。トゥーマーン・バイは逃げて、ベドウィンに売られ、4月13日、カイロのズウェイラ門に吊るされた。ロープが2度切れた。
セリムはカイロに8か月いた。職人と学者と、アッバース朝の「カリフ」(1258年のバグダード陥落のあと、マムルーク朝がカイロに置いた飾り物)のムタワッキル3世をイスタンブールへ連れて行った。カリフの称号をセリムに譲った、という話は18世紀に作られた(1774年のキュチュク・カイナルジャ条約でロシアと交渉するために)。しかし、メッカとメディナの鍵はセリムが受け取った。「二つの聖なる都市の守護者」。
シリア、エジプト、ヒジャーズ。オスマンの領土は、8年で倍になった。アラブの土地とアラブのムスリムが帝国の中に入って、帝国の性格が変わった。イスラーム世界の中心が、カイロからイスタンブールへ。
セリムは1520年、ペストか癌で死んだ。50歳。息子スレイマンが46年。