できごと

アシャンティ王国

The Asante Empire
AD1701年
重要度 3
スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝モロッコPortuguese Brazilオロモエチオピア帝国カネム=ボルヌダルフールハウサ諸王国ルバ王国ルンダ王国RozwiAwsaマリワダイ王国アシャンティ王国オヨ王国モシ諸王国アカンコンゴポルトガル領東アフリカAD1701年クマシ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1701年の版図を描いています(23勢力)。

概要

黄金の椅子が天から降りてきて、国の魂が宿ったとされる。誰も座らない。英国が19世紀にその椅子の引き渡しを求めたことが、戦争の引き金になった。

場所

クマシ
6.69°N -1.62°E · ガーナ

関わった人(1)

ヤア・アサンテワーAD1840年頃–AD1921年10月17日 · 最後の抵抗を率いた

本文

17世紀の後半、いまのガーナの森林地帯には、アカンの人々の小さな国がいくつも並んでいた。森の土からは金が採れた。北のサハラを越える交易路(ガーナ王国の金と塩の交易の時代から続く道)へも、南の海岸に並ぶヨーロッパ人の砦へも、金は流れていった。その頃この一帯で最も強かったのはデンキラの国で、周りの小国は貢ぎ物を納めていた。

その小国の一つクマシの王オセイ・トゥトゥと、司祭オコムフォ・アノチェが、周りの首長たちをまとめた。伝承によれば、アノチェが人々を集めて祈ると、空が暗くなり、金で飾られた椅子が雲の中から降りてきて、オセイ・トゥトゥの膝の上にとまった。アノチェは、この椅子にアシャンティの人々すべての魂が宿ると告げた。首長たちは、この一つの椅子のもとにまとまることを誓ったという。

ボスムトゥイ湖
ボスムトゥイ湖Wikimedia Commons Stig Nygaard from Copenhagen, Denmark · CC BY 2.0

1701年、連合した軍はフェイアセの戦いでデンキラを破った。アシャンティは貢ぐ側から、貢がせる側になる。オセイ・トゥトゥは最初のアシャンティヘネ(アシャンティの王)となり、クマシを都にした。

椅子は、アカンの人々にとって、ただの家具ではない。人の椅子にはその人の魂が宿ると考えられ、首長の椅子は位そのものを表す。黄金の椅子は、そのすべての上に立つものだった。

クマシのアダム・ストリートで機織りをするケンテ織職人(1819年)
クマシのアダム・ストリートで機織りをするケンテ織職人(1819年)Wikimedia Commons Public domain

だから、誰も座らない。王でさえ、その上に腰を下ろさない。新しい王が立つときは、椅子の上で身を三度下ろしかけて、触れずに上げる。椅子は地面に触れさせてもいけない。専用の椅子の上に、象の皮を敷いて置かれる。

アシャンティは18世紀を通じて周りの国々を従え、いまのガーナの大半に広がる国になった。北のサバンナからは家畜や奴隷が、南の海岸からは鉄砲や布が入った。アシャンティは金と、戦争で捕らえた人々を海岸のヨーロッパ商人に売り、鉄砲を手に入れた。大西洋の奴隷貿易に深く関わり、それによって強くなった国でもあった。王のもとには、道路網と使者の制度、徴税の役人が整えられていた。

金は国の暮らしの隅々にまで入り込んでいた。市場では砂金が通貨として使われ、量るための小さな真鍮の分銅が数多く作られた。動物や人、ことわざの場面をかたどった分銅で、いまも博物館に残る。王の財宝を預かる役人がいて、王宮に入る砂金の量を管理していた。

19世紀、海岸を押さえたイギリスとぶつかる。1824年の戦いでは、イギリスの総督マッカーシーが戦死した。1874年にはイギリス軍がクマシに入り、王宮を焼いた。アフリカ分割が進むなか、1896年、イギリスは王プレンペ1世を捕らえ、のちにインド洋のセーシェル諸島へ流した。アシャンティは保護領にされた。

1900年3月、イギリスの総督ホジソンがクマシで首長たちを集め、黄金の椅子を差し出すよう求めた。椅子はどこにあるのか、なぜ自分はいまそこに座っていないのか、と言ったと伝えられる。イギリス女王の代理として、王の座を自分が受け継ぐという意味だった。だがアシャンティの人々にとって、それは国の魂に腰を下ろすということだった。

戦争になる。王の不在のなか、エジスの国の王母ヤア・アサンテワーが首長たちを奮い立たせ、軍を率いた。総督たちはクマシの砦に籠城し、数か月にわたって包囲された(アサンテワー戦争)。イギリスは援軍を送って包囲を解き、抵抗を抑えた。ヤア・アサンテワーも捕らえられてセーシェルへ流され、1921年にそこで亡くなった。1902年、アシャンティはイギリスの植民地に組み込まれた。

それでも、椅子は渡されなかった。森の中に隠されたまま、イギリスは見つけることができなかった。1920年代、道路工事の作業員が偶然掘り当て、金の飾りの一部をはぎ取ったことがある。アシャンティの人々は彼らを裁いて死刑を求め、植民地政府が追放に減じさせた。この一件のあと、イギリスは椅子に手を出さなくなった。

プレンペ1世は1924年に帰国を許された。1957年、ゴールド・コーストはガーナの独立を果たし、アシャンティはその一部になった。アシャンティヘネはいまも続き、黄金の椅子はクマシの王宮にある。特別な儀式のときにだけ人前に出される。

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