アシャンティ王国
概要
黄金の椅子が天から降りてきて、国の魂が宿ったとされる。誰も座らない。英国が19世紀にその椅子の引き渡しを求めたことが、戦争の引き金になった。
場所
6.69°N -1.62°E · ガーナ
関わった人(1)
ヤア・アサンテワーAD1840年頃–AD1921年10月17日 · 最後の抵抗を率いた本文
17世紀の後半、いまのガーナの森林地帯には、アカンの人々の小さな国がいくつも並んでいた。森の土からは金が採れた。北のサハラを越える交易路(ガーナ王国の金と塩の交易の時代から続く道)へも、南の海岸に並ぶヨーロッパ人の砦へも、金は流れていった。その頃この一帯で最も強かったのはデンキラの国で、周りの小国は貢ぎ物を納めていた。
その小国の一つクマシの王オセイ・トゥトゥと、司祭オコムフォ・アノチェが、周りの首長たちをまとめた。伝承によれば、アノチェが人々を集めて祈ると、空が暗くなり、金で飾られた椅子が雲の中から降りてきて、オセイ・トゥトゥの膝の上にとまった。アノチェは、この椅子にアシャンティの人々すべての魂が宿ると告げた。首長たちは、この一つの椅子のもとにまとまることを誓ったという。

1701年、連合した軍はフェイアセの戦いでデンキラを破った。アシャンティは貢ぐ側から、貢がせる側になる。オセイ・トゥトゥは最初のアシャンティヘネ(アシャンティの王)となり、クマシを都にした。
椅子は、アカンの人々にとって、ただの家具ではない。人の椅子にはその人の魂が宿ると考えられ、首長の椅子は位そのものを表す。黄金の椅子は、そのすべての上に立つものだった。

だから、誰も座らない。王でさえ、その上に腰を下ろさない。新しい王が立つときは、椅子の上で身を三度下ろしかけて、触れずに上げる。椅子は地面に触れさせてもいけない。専用の椅子の上に、象の皮を敷いて置かれる。
アシャンティは18世紀を通じて周りの国々を従え、いまのガーナの大半に広がる国になった。北のサバンナからは家畜や奴隷が、南の海岸からは鉄砲や布が入った。アシャンティは金と、戦争で捕らえた人々を海岸のヨーロッパ商人に売り、鉄砲を手に入れた。大西洋の奴隷貿易に深く関わり、それによって強くなった国でもあった。王のもとには、道路網と使者の制度、徴税の役人が整えられていた。
金は国の暮らしの隅々にまで入り込んでいた。市場では砂金が通貨として使われ、量るための小さな真鍮の分銅が数多く作られた。動物や人、ことわざの場面をかたどった分銅で、いまも博物館に残る。王の財宝を預かる役人がいて、王宮に入る砂金の量を管理していた。
19世紀、海岸を押さえたイギリスとぶつかる。1824年の戦いでは、イギリスの総督マッカーシーが戦死した。1874年にはイギリス軍がクマシに入り、王宮を焼いた。アフリカ分割が進むなか、1896年、イギリスは王プレンペ1世を捕らえ、のちにインド洋のセーシェル諸島へ流した。アシャンティは保護領にされた。
1900年3月、イギリスの総督ホジソンがクマシで首長たちを集め、黄金の椅子を差し出すよう求めた。椅子はどこにあるのか、なぜ自分はいまそこに座っていないのか、と言ったと伝えられる。イギリス女王の代理として、王の座を自分が受け継ぐという意味だった。だがアシャンティの人々にとって、それは国の魂に腰を下ろすということだった。
戦争になる。王の不在のなか、エジスの国の王母ヤア・アサンテワーが首長たちを奮い立たせ、軍を率いた。総督たちはクマシの砦に籠城し、数か月にわたって包囲された(アサンテワー戦争)。イギリスは援軍を送って包囲を解き、抵抗を抑えた。ヤア・アサンテワーも捕らえられてセーシェルへ流され、1921年にそこで亡くなった。1902年、アシャンティはイギリスの植民地に組み込まれた。
それでも、椅子は渡されなかった。森の中に隠されたまま、イギリスは見つけることができなかった。1920年代、道路工事の作業員が偶然掘り当て、金の飾りの一部をはぎ取ったことがある。アシャンティの人々は彼らを裁いて死刑を求め、植民地政府が追放に減じさせた。この一件のあと、イギリスは椅子に手を出さなくなった。
プレンペ1世は1924年に帰国を許された。1957年、ゴールド・コーストはガーナの独立を果たし、アシャンティはその一部になった。アシャンティヘネはいまも続き、黄金の椅子はクマシの王宮にある。特別な儀式のときにだけ人前に出される。