ズールー王国の勃興
概要
戦術と組織の刷新で小氏族が強大な王国になった。その激動は南部アフリカ全体を動かす。
場所
-28.34°N 31.42°E · 南アフリカ・クワズール・ナタール州
関わった人(1)
シャカ・ズールーAD1787年頃–AD1828年9月22日 · 当人本文
18世紀の終わりごろ、南部アフリカの東海岸、ドラケンスバーグ山脈とインド洋にはさまれた草原地帯には、ングニ系の言葉を話す数多くの首長国が並んでいた。人びとは牛を飼い、穀物を育てて暮らしていた。ズールーは、そのなかの数千人ほどの小さな氏族にすぎなかった。19世紀に入るころから、この一帯ではムテトワやンドワンドウェといった大きな首長国が周りを従えて勢力を広げ、争いが激しくなっていた。人口の増加や干ばつ、海岸の交易の利権をめぐる争いが背景にあったとみられている。
シャカ・ズールーは、ズールーの首長の息子として生まれたが、母が正式な妻と認められなかったため、幼いころは母とともに居場所を転々としたと伝えられる。若くしてムテトワの首長ディンギスワヨの軍に加わって頭角を現し、1816年ごろ、その後ろ盾を得て父の後を継ぎ、ズールーの首長になった。

シャカの名とともに語られるのが、戦い方の改革である。それまでの戦いは、離れて投げ槍を投げ合い、勝負がつけば引き上げる、という形が多かったとされる。シャカは、刃の長い短い槍で盾を押しつけ、相手の懐に入って突く戦い方を兵に叩き込んだ。速く動けるよう、兵には素足で走らせたとも伝えられる。陣形は、中央の「胸」が敵を受け止め、左右の「角」が回り込んで包み、後ろの「腰」が控える、という牛の角の形をとった。こうした改革のどこまでがシャカ自身の発明かは議論があり、すでに周辺で使われていた方法を徹底させたとみる研究者も多い。
組織の改革も大きかった。若者を出身の氏族ごとではなく、同じ年ごろの者どうしで連隊に編成した。連隊は王のもとで暮らし、王の許しがあるまで結婚できない。古い氏族への忠誠は、王と連隊への忠誠に置き換えられていった。征服した集団の若者もこの連隊に組み込まれ、ズールーを名乗るようになる。こうしてズールーは、一つの氏族から、王を中心とする国へと姿を変えた。

1818年ごろ、ディンギスワヨがンドワンドウェとの戦いで殺されると、シャカはムテトワの勢力圏を引き継いだ。翌年にはンドワンドウェを破り、トゥゲラ川とポンゴラ川のあいだの広い地域を支配下に置いた。
ズールーの急な膨張と、同じ時期の周辺の争いは、南部アフリカ全体を揺さぶった。逃れた集団は新しい土地を奪いながら移動し、その先でまた別の集団を押し出した。南部アフリカの言葉で「押しつぶし」「散り散り」を意味するムフェカネと呼ばれるこの混乱は、数十万人の命を奪ったとされる。ズールーから分かれたムジリカジは北へ移ってンデベレの国を作り、遠く東アフリカまで移動した集団もいた。一方で、混乱から人びとを守るために山地に拠ったモショエショエのもとで、のちのレソトとなる国が生まれてもいる。

ただし、この混乱をすべてシャカのせいとする見方は、いまでは見直されている。同じ時期に、内陸での奴隷の狩り立てや、植民地から北へ広がるヨーロッパ系の入植者の圧力もあったからだ。ムフェカネの規模や原因をめぐっては、1980年代から激しい論争が続いている。
シャカの晩年の統治は、恐怖で人を従わせるものになっていったと伝えられる。1827年に母が亡くなると、深い悲しみの中で多くの人を処刑させたという話も残る。ただ、残酷な王という像の多くは、同時代のヨーロッパ人の記録や後の語りに頼っており、誇張も含まれているとみられている。1828年、シャカは異母弟のディンガネとムランガナに暗殺された。

ディンガネの後もズールー王国は続き、1830年代には内陸へ進んできたボーア人と衝突する(グレート・トレック)。1879年、ズールー軍はイサンドルワナの戦いでイギリス軍を破って世界を驚かせたが、その年のうちに都を焼かれ、王国は分割された。それでもシャカの名は、いまも南アフリカのズールーの人びとの誇りとして語られている。