できごと

塩の行進

Salt March
1930年
重要度 5
塩の行進に関わる図版:Marche sel
Marche sel Wikimedia Commons Yann ( talk ) · Public domain

概要

塩の専売に抗い、380kmを24日かけて歩いた。誰でも真似できる不服従が、帝国を揺さぶる。

場所

ダンディ
20.91°N 72.67°E · インド・グジャラート州

関わった人(1)

ガンディーAD1869年10月2日–AD1948年1月30日 · 当人

本文

1930年3月12日の朝、インド西部の町アフマダーバードの郊外にある修道場から、61歳のガンディーが歩き出した。手には竹の杖を持ち、78人の同行者がそれに従った。目指すのは、約380キロ南の海辺の村ダンディーである。ガンディーは出発にあたって、独立が得られるまでこの修道場には戻らないと誓ったと伝えられる。実際に彼は、生涯そこで暮らすことはなかった。

塩がその目標に選ばれた。イギリスが支配するインドでは、塩を作ることも売ることも政府の専売とされ、税がかけられていた。インドの人々は、自分の国の海辺で塩を作ることを許されず、政府の塩を買わなければならなかった。塩は誰でも、毎日使う。貧しい者ほど、その税は重く感じられた。そして海があれば、誰でも作ることができた。

マハトマ・ガンディーとサロージニー・ナーイドゥー
マハトマ・ガンディーとサロージニー・ナーイドゥーWikimedia Commons Public domain

前の年の暮れ、インド国民会議派は大会で、イギリスからの完全な独立を目標に掲げた。だが、どうやって独立を求めるのか。国民会議派の指導者たちの中には、塩という目標を小さすぎると考える者もいた。ガンディーは違った。宗教も身分も地域も違う人々が、同じように不正だと感じられる法律はほかになかった。

出発の前、ガンディーはインド総督のアーウィン卿に手紙を送り、要求を伝えたうえで、受け入れられなければ塩の法律を破ると予告した。総督は返事をしなかった。逮捕すれば騒ぎが大きくなり、放っておけば行進は失敗する、と踏んだとされる。

1930年4月5日、泥と塩の塊を持ち上げるマハトマ・ガンディー
1930年4月5日、泥と塩の塊を持ち上げるマハトマ・ガンディーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

行進は24日間続いた。ガンディーは毎日15キロ前後を歩き、村々で人々に語りかけた。外国の布を使わず、自分で紡いだ布を着ること、酒を断つこと、身分の低い人々への差別をやめること。新聞の記者や写真家がその後を追い、国内外に毎日の様子を伝えた。歩くだけの行為が、記事になった。各地で人が加わり、行列はふくれ上がっていった。

4月5日、一行はダンディーに着いた。翌6日の早朝、ガンディーは海で身を清めた後、浜に降り、潮が引いた後に残った塩の塊を一つかみ拾い上げた。それだけのことだった。違法ではあるが、暴力ではない。そして誰にでも真似ができる。

塩の不服従運動の集会でのガンディー
塩の不服従運動の集会でのガンディーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その日から、インドの各地の海岸で人々が海水を煮て塩を作り始めた。内陸では、許可なく作った塩が町で売られ、外国の布を売る店の前では座り込みが行われた。政府は取り締まりに乗り出し、6万人以上が逮捕された。国民会議派の指導者のジャワハルラール・ネルーも捕らえられ、ガンディー自身も5月5日の深夜に逮捕された。

ガンディーが捕らえられた後、行動は続いた。5月21日、詩人で運動家のサロージニー・ナイドゥらに率いられた2000人を超える人々が、西海岸のダラサナにある政府の製塩所へ向かった。列の先頭の人々が柵に近づくと、警官たちが鉄の先を付けた棍棒で彼らを打ち倒した。打たれた人々は手を上げて身を守ることもせず、倒れると後ろの列が進み出た。その場にいたアメリカ人記者ウェッブ・ミラーの記事は、世界中の新聞に載った。

行進を率いるC・ラージャーゴーパーラーチャリ
行進を率いるC・ラージャーゴーパーラーチャリWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

法を破ることで、その法を執行する側を見苦しくさせる。それが、この運動の設計の核心だった。抵抗する側が暴力を使わなければ、暴力をふるう側の姿だけが残る。

1931年、ガンディーは釈放され、総督アーウィンと協定を結んだ。政治犯は釈放され、海辺の住民が自分たちで使う塩を作ることは認められた。ガンディーはその年、ロンドンで開かれた会議に国民会議派の代表として出席した。インドの将来を話し合う円卓会議だったが、独立への具体的な成果は得られなかった。イギリスの政治家チャーチルは、ガンディーを「半裸の行者」と嘲った。

ダラサナー製塩所への行進を率いるサロジニー・ナーイドゥ
ダラサナー製塩所への行進を率いるサロジニー・ナーイドゥWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

塩の行進ですぐに独立が手に入ったわけではない。塩の税そのものも、独立の直前まで残された。だが、ひとりの老人が歩くだけで帝国を動かせることを、インドの人々とイギリスの両方が知った。運動に参加した人々の多くは、それまで政治とは縁のなかった農民や女性たちだった。一方で、ムスリムの参加は限られ、ヒンドゥーとムスリムの溝はその後も深まっていった。

1942年には「インドを立ち去れ」運動(「インドを立ち去れ」運動)が起き、第二次世界大戦の後の1947年、インドは独立する(インドの独立)。だがそれは、インドとパキスタンへの分離(インド・パキスタン分離)と、数十万人以上が死んだ宗教暴動を伴った。ガンディーは翌年、ヒンドゥーの過激派に撃たれて死んだ(ガンディーの暗殺)。

インドの独立に関わる図版:India, by British Information Services, 1944 restored version
インドの独立Wikimedia Commons British Information Services, an agency of the British Government, restoration by Wilfredor · Public domain

ガンディーの非暴力の抵抗は、インドの外でも学ばれた。アメリカの公民権運動を率いたキング牧師は、インドを訪れてガンディーの足跡をたどり、その方法を自分たちの闘いに取り入れた。塩を一つかみ拾うという小さな行為は、その後の世界中の抵抗運動の手本の一つになった。

動画(1)

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