できごと

シャムの近代化

Modernization of Siam
1868年 – 1910年
期間を持つできごと重要度 4
ロシア帝国大英帝国清New South WalesTuranマラーター同盟ペルシアスペイン帝国イギリス東インド会社ラタナコーシン朝(シャム)パプアの人びとアフガニスタンビルマ日本マラヤ安南朝鮮王朝Assamフィリピンカンボジアオランダ領東インドネパールオマーンOudhマイソール藩王国アラカンセイロン1868年バンコク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1868年の版図を描いています(27勢力)。

概要

奴隷制を廃し制度を改めた。英仏の緩衝地帯という位置も利用して、東南アジアで唯一独立を保つ。

場所

バンコク
13.76°N 100.50°E · タイ

関わった人(1)

ラーマ5世AD1853年9月20日–AD1910年10月23日 · 当人

本文

19世紀の半ば、東南アジアの国々は次々にヨーロッパの国の手に落ちていった。ビルマはイギリスと戦って領土を奪われ、ベトナムにはフランスが入り込んでいた。シャム(いまのタイ)も、無縁ではいられなかった。1855年、王のラーマ4世(モンクット)はイギリスと条約を結び、イギリス人をシャムの法で裁けないこと、関税を低く抑えることを認めた。不平等な条約だったが、戦わずに国を開いた。

1868年、モンクット王が死に、15歳の息子が王になった。ラーマ5世(チュラロンコン)である。初めの数年は重臣が摂政として政治を行った。若い王はその間に、イギリス領のシンガポールやオランダ領のジャワ、そしてインドを訪れ、植民地の役所や学校、軍隊を自分の目で見た。東南アジアの王が国の外を見て回るのは、珍しいことだった。

チュラロンコン王(ラーマ5世)の肖像
チュラロンコン王(ラーマ5世)の肖像Wikimedia Commons Bain News Service, publisher. · Public domain

親政を始めた王は、まず宮廷の古い礼を改めた。王の前で臣下がひれ伏す礼をやめさせたのである。次に取り組んだのが、奴隷の解放だった。当時のシャムには、借金のために身を売った人々や、生まれながらの奴隷が大勢いた。一度に解放すれば、持ち主の貴族の反発を招き、暮らしの当てのない人も出る。王は1874年、王が即位した1868年以降に生まれた奴隷の子は、21歳になれば自由になると定め、その後も段階を踏んで、1905年に奴隷の制度を終わらせた。30年をかけた改革だった。人々を無償で働かせる賦役も、しだいに改められた。

国の仕組みも作り直した。1892年、役所を大臣が率いる省に分け、ヨーロッパに学んだ王族たちを大臣にした。地方では、それまで半ば独立していた領主たちに代えて、都から役人を送って治める仕組みを、王の弟のダムロン親王が中心になって作った。学校を開き、郵便と電信を始め、1890年代には首都バンコクから北へ鉄道を敷いた。

モンクット王とチュラロンコン王子
モンクット王とチュラロンコン王子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一方で、外からの圧力は強まる一方だった。イギリスは1885年にビルマを併合し(ビルマの併合)、フランスはベトナム、カンボジアを治めていた。1893年、メコン川の東の土地をめぐる争いで、フランスの砲艦がバンコクの川を遡って王宮の近くに迫った。シャムはメコン川の東岸、いまのラオスにあたる土地を手放さざるをえなかった。その後も、カンボジアの西部をフランスに、マレー半島の北部の四つの州をイギリスに譲った。手放した土地の広さは数え方によって大きく異なるが、王の時代のシャムは周りの広い土地を失った。

それでも、国の中心は守られた。イギリスとフランスは、1896年に取り決めを結び、チャオプラヤー川の流域を、どちらも手を出さない土地とした。互いに相手が全部を取ることを望まず、そのあいだに置く緩衝の国としてシャムを残したのである。王はこの位置を見て、譲れるものは譲り、そのたびに不平等な条約の一部を取り戻すよう交渉した。1909年のイギリスとの条約では、マレーの州を譲る代わりに、イギリスの国民をシャムの法で裁けない取り決めの一部が改められた。

出家中のチュラロンコン王子(1873年、王宮内で撮影)
出家中のチュラロンコン王子(1873年、王宮内で撮影)Wikimedia Commons Francis Chit · Public domain

王は1897年と1907年の二度、ヨーロッパを訪れた。各国の王や首脳と会い、シャムが文明の国であることを示そうとした。2度目の旅の記録には、ヨーロッパで見たものを細かく書き留めた王の手紙が残っている。

チュラロンコンは1910年に死んだ。在位は42年に及んだ。シャムは東南アジアでただ一つ、植民地にならずに独立を保った国になった。同じころ、日本も明治の改革を進め、1894年にはイギリスとの条約で治外法権をなくしていた(条約改正(日英通商航海条約))。シャムの王と日本の改革は、しばしば並べて語られる。王の死後、不平等な条約がすべて改められるのは1930年代の終わりで、その間の1932年には、王の権力を憲法で縛る革命が起きる(タイの立憲革命)。王の命日の10月23日は、いまもタイの祝日として記念されている。

動画(1)

【東南アジア⑤】タイ&フィリピンの歴史中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY東南アジアシリーズの第5回。タイとフィリピンの歴史

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