アーサー・バルフォア
概要
スコットランドの貴族、ソールズベリー卿の甥(「ボブは君の叔父さん」の語源、と言われる)。哲学者。首相(1902〜05年、教育法、英仏協商)。外相(1916〜19年)。宣言はロイド・ジョージとワイツマン(アセトンの化学者、シオニスト)が動かし、彼が署名した。「ユダヤ人にとって、シオニズムは、パレスチナに住む70万のアラブ人の願望や偏見より深い意味を持つ」と1919年に書いた。1926年、バルフォア報告書(自治領の平等)。
関わったできごと(1)
バルフォア宣言AD1917年11月2日 · 手紙を書いた本文
アーサー・ジェームズ・バルフォアは、1848年7月25日、スコットランド東部のウィッティンゲムの屋敷で生まれた。父はスコットランドの富裕な地主で議員、母ブランシュはのちに3度首相を務めるソールズベリー侯爵の妹だった。名門イートン校からケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進み、哲学を好んだ。1879年には、科学の確かさを問い直す『哲学的懐疑の擁護』を書いている。テニスやゴルフを愛し、生涯結婚しなかった。

1874年、保守党の下院議員になった。政界での出世を助けたのは、叔父のソールズベリーだった。1887年、叔父の内閣でアイルランド担当相に任じられたとき、38歳の彼は、ひ弱な文人と見られていた。だがバルフォアは、小作人の地代不払い運動を厳しい治安立法で取り締まり、警官隊の発砲で死者が出た事件のあとも引かなかったため、「血まみれのバルフォア」と呼ばれた。一方で、土地法で小作人が土地を買えるようにし、貧しい地方の開発にも金を出した。「ボブはお前の叔父さん」(すべてうまくいく、の意味の英語の言い回し)が、叔父ロバートに引き立てられたバルフォアに由来するという説があるが、確かではない。
1902年7月、叔父の後を継いで首相になった。在任中には、教会の学校にも公費を出して地方の教育行政に組み込む教育法を通し、アイルランドの小作人の土地購入を進め、1904年にはフランスとの英仏協商を結んだ。国防の方針を練る帝国防衛委員会も作った。しかし、植民地との関税同盟を唱えるジョゼフ・チェンバレンと自由貿易派のあいだで党が割れ、1905年12月に辞任した。翌1906年の総選挙で保守党は大敗し、バルフォア自身も議席を失った。1911年には党首を退いた。
第一次世界大戦が、彼を表舞台に戻した。1915年、挙国一致内閣で海軍大臣となり、1916年12月、ロイド・ジョージ内閣の外務大臣に就いた。1917年4月、アメリカが参戦するとすぐワシントンに渡り、協力の調整にあたった。

1917年11月2日、バルフォアは、イギリスのユダヤ人社会の代表ロスチャイルド卿に宛てた短い書簡に署名した。イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を作ることに好意を持ち、その実現に努力する、ただしそこに住む非ユダヤ人の諸共同体の市民的・宗教的権利を損なうことはしない、という内容だった(バルフォア宣言)。宣言の背後には、戦争に役立つ化学者でもあったシオニストの指導者ハイム・ヴァイツマンの働きかけや、アメリカとロシアのユダヤ人の支持を得たいという戦時の計算があった。同じ頃、イギリスはアラブの指導者に独立を約束し、フランスとは中東を分け合う秘密協定を結んでいた(サイクス・ピコ協定)。
1919年8月のメモで、バルフォアは、シオニズムは正しくても間違っていても、良くても悪くても、いまパレスチナに住む70万のアラブ人の願望や偏見よりはるかに深い意味を持つと書いた。住民の多数派であるアラブ人の意思を問わないことを、彼ははっきり自覚していた。この宣言が、のちのイギリスの委任統治、ユダヤ人の移住の拡大、そしてイスラエルの建国とそれに続く争いの出発点の一つになった。
![1880年の庶民院議場で固まって座る第四党を描いた『バニティ・フェア』誌の戯画。左からランドルフ・チャーチル卿、バルフォア[注釈 3]、ヘンリー・ドラモンド・ウォルフ(英語版)、ジョン・エルドン・ゴースト(英語版)。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f1/The_Fourth_Party_Vanity_Fair_1_December_1880.jpg)
1919年、パリ講和会議に加わったあと外相を退き、1921年からのワシントン会議では海軍の軍備制限の交渉にイギリス代表としてあたった。1922年に伯爵となった。1925年には、エルサレムのヘブライ大学の開校式に出席するためパレスチナを訪れた。この旅で立ち寄ったダマスカスでは、抗議の群衆に囲まれ、警備の下で早々に立ち去った。
1926年の帝国会議では、カナダやオーストラリアなどの自治領はイギリスと対等で、互いに従属しないとする報告をまとめた。これもバルフォア報告と呼ばれ、1931年のウェストミンスター憲章の土台となった。

1930年3月19日、ロンドン南西のサリーにある弟の家で死んだ。81歳だった。何事もたいして重要ではなく、重要なことはほとんどない、という言葉が彼のものとして伝わる。冷ややかで超然とした人柄で知られた政治家の名は、中東の地図を変えた一通の書簡とともに残った。