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Person / 人

アーサー・バルフォア

Arthur Balfour
AD1848年7月25日 – AD1930年3月19日(享年81)
イギリス重要度 4

概要

スコットランドの貴族、ソールズベリー卿の甥(「ボブは君の叔父さん」の語源、と言われる)。哲学者。首相(1902〜05年、教育法、英仏協商)。外相(1916〜19年)。宣言はロイド・ジョージとワイツマン(アセトンの化学者、シオニスト)が動かし、彼が署名した。「ユダヤ人にとって、シオニズムは、パレスチナに住む70万のアラブ人の願望や偏見より深い意味を持つ」と1919年に書いた。1926年、バルフォア報告書(自治領の平等)。

関わったできごと(1)

バルフォア宣言AD1917年11月2日 · 手紙を書いた

本文

1848年7月25日、スコットランドのウィッティンゲム。父ジェームズは鉄道で富んだ地主、母ブランシュはソールズベリー卿(3度首相)の妹。イートン、ケンブリッジ(トリニティ)。哲学。『哲学的懐疑の擁護』(1879年)、『信念の基礎』(1895年)。テニス、ゴルフ、自転車。生涯独身。「ソウルズ」(貴族の知的サークル)。

1874年、下院議員(保守党)。1885年、叔父が首相。1887年、アイルランド担当相(40歳)。土地同盟と戦って「血のバルフォア」。同時に土地法。1891年、下院院内総務。「ボブは君の叔父さん(Bob's your uncle。「万事うまくいく」)」の語源は、叔父ロバートが甥を引き上げたことから、と言われる(確かでない)。

1902年7月、首相。教育法(1902年、公立学校の地方自治体への統合、教会学校への公費)、アイルランド土地購入法(1903年)、英仏協商(1904年)、帝国防衛委員会。関税改革(チェンバレン)で党が割れて、1905年12月、辞任。1906年、総選挙で大敗、自分の議席も失った。1911年、党首を辞めた。

1915年5月、海軍相(チャーチルの後)。1916年12月、外相(ロイド・ジョージの下)。1917年4月、アメリカへ(参戦の直後)。11月2日、宣言。1919年、パリ講和会議(ロイド・ジョージの陰で)。1919年10月、外相を辞めた。枢密院議長。1921〜22年、ワシントン会議(海軍軍縮)。1922年、伯爵。1925年、パレスチナ訪問(ヘブライ大学の開校)。ダマスクスでアラブ人の群衆に襲われかけた。1926年、帝国会議のバルフォア報告書(「自治領はイギリスと対等」。1931年のウェストミンスター憲章の元)。

1930年3月19日、サリーのフィッシャーズ・ヒル(弟の家)で死んだ。81歳。ウィッティンゲム。

「何事も大して重要でなく、ほとんどのことは全く重要でない」(バルフォアの言葉、と伝える)。宣言についても、彼は同じ調子だった。1919年8月11日のメモ。「私は、シオニズムが、正しくても間違っていても、良くても悪くても、70万のアラブ人の願望と偏見よりはるかに深い意味を持つと考える」。