ジェームズ・ポーク
概要
テネシー。ジャクソンの弟子。「ダークホース」で11代大統領。4つの目標を掲げた。関税引き下げ、独立国庫、オレゴン、カリフォルニア。全部やった。オレゴンはイギリスと北緯49度で分け、カリフォルニアはメキシコと戦争して取った。「明白なる運命」。1期で辞めて、3か月後にコレラで死んだ。53歳。大統領の中で最も仕事をして、最も短く生きた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
米墨戦争AD1847年9月14日 · 戦争を欲しがった本文
ジェームズ・ポークは、アメリカ合衆国の第11代大統領である。在任はわずか4年だったが、その間に国土を大西洋から太平洋まで押し広げた。就任のときに掲げた目標をすべて果たした大統領として、歴史家の評価は高い。同時に、その拡大は隣国との戦争によるもので、奴隷制をめぐる国の分裂を早めることにもなった。

1795年、ノースカロライナ州の農家に生まれ、10歳のときに一家でテネシーへ移った。体が弱く、17歳のときには尿路の結石を取り除く手術を受けた。麻酔のない時代で、ブランデーだけを頼りに耐えたという。その後は健康を取り戻し、ノースカロライナ大学を首席に近い成績で卒業して弁護士になった。
テネシーで政治の道に入り、1825年に連邦下院議員になった。同じテネシー出身の英雄アンドリュー・ジャクソンの熱心な支持者で、「若いヒッコリー」と呼ばれた(ジャクソンのあだ名は「古いヒッコリー」だった)。下院議長を務めたのち、テネシー州知事になったが、1841年と1843年の知事選に続けて敗れた。政治家としてはもう終わったと見られていた。

転機は1844年の民主党大会だった。本命は前大統領のヴァン・ビューレンだったが、彼はメキシコから独立したテキサスを合衆国に併合することに反対していて、指名に必要な3分の2の票を集められなかった。投票が繰り返され、9回目にポークが選ばれた。事前にはほとんど名前の挙がっていなかった候補で、のちに「ダークホース」と呼ばれる、予想外の候補が大統領候補に指名された最初の例とされる。対立するホイッグ党は「ジェームズ・K・ポークとは誰だ」とからかったが、ポークはテキサスの併合と、イギリスと共同で領有していた北西部のオレゴンの獲得を掲げて、有力政治家のヘンリー・クレイを破った。
就任にあたってポークは、側近に四つの目標を語ったと伝えられる。関税の引き下げ、政府の資金を民間の銀行から引き揚げて国の金庫で管理する独立国庫、オレゴン問題の解決、そしてカリフォルニアの獲得である。テキサスは就任の直前に前大統領の下で併合が決まり、その年のうちに州になった。

関税は1846年に引き下げられ、独立国庫の制度も同じ年にできた。オレゴンについては、北緯54度40分までのすべてを要求する強硬な声があった。だがポークはイギリスとの交渉で、北緯49度を境に分けることで合意した。南でメキシコとの戦争が迫る中、イギリスとまで戦うことは避けたのである。
カリフォルニアとニューメキシコは、メキシコに買い取りを持ちかけて断られていた。ポークは、テキサスとメキシコの境界をめぐって争いのあったリオ・グランデ川の北岸へ軍を進めさせた。1846年4月、両軍が衝突すると、ポークは議会に、メキシコがアメリカの領土でアメリカ人の血を流したと訴え、開戦に持ち込んだ(米墨戦争)。若い下院議員だったエイブラハム・リンカーンは、血が流されたのは本当にアメリカの領土だったのか、その「地点」を示せと大統領に迫っている。アメリカ軍は首都メキシコシティまで攻め入り、1848年の講和で、メキシコはカリフォルニアからニューメキシコに至る広大な土地を、1500万ドルと引き換えに手放した。メキシコは国土のおよそ半分を失った。

講和の直前、カリフォルニアで金が見つかっていた。1848年の暮れ、ポークが議会への教書でこれを公に認めると、翌年、世界中から人々が押し寄せた。ゴールドラッシュである。
だが、新しく得た土地で奴隷制を認めるのかという問題が、すぐに国を二つに割り始めた。戦争中に、メキシコから得る土地では奴隷制を禁じるという修正案が下院に出され、南北の対立が激しくなった。ポーク自身はテネシーとミシシッピに農園を持つ奴隷主で、大統領在任中にも代理人を通じてひそかに奴隷を買い足していたことが、のちの研究で明らかになっている。十数年後の南北戦争への道は、この領土の拡大から始まったと見る歴史家は多い。

ポークは働きすぎるほど働いた大統領だった。朝から深夜まで執務し、在任中に首都を離れたのは延べで数週間ほどだったと言われる。部下に仕事を任せることが苦手で、細かな予算まで自ら目を通し、その日々を詳しい日記に書き残した。妻のサラは夫の秘書役を務め、官邸から踊りや強い酒を遠ざけた。
ポークは最初から、大統領は1期だけで務めると公言していた。1849年3月に退任すると、故郷のテネシー州ナッシュヴィルへ戻る旅の途中で体調を崩し、6月15日、コレラで死んだ。53歳。退任から103日後のことで、歴代の大統領の中で最も短い引退生活だった。