オーストラリアのゴールドラッシュ

概要
10年で人口が3倍になった。中国系移民も多く渡り、後の白豪主義の遠因にもなる。
場所
-37.81°N 144.96°E · オーストラリア・ビクトリア州
本文
1850年のオーストラリアは、イギリスの流刑植民地から始まった、羊毛の国だった。内陸の広い牧場で羊を飼い、その毛を本国へ送る。人口は40万人ほどで、その多くは囚人として送られてきた者とその子孫、そして自由移民だった。土地はもともとアボリジニの人々のもので、牧場の広がりとともに彼らは追われていた。
1848年、アメリカのカリフォルニアで金が見つかり、世界中から人が殺到した。オーストラリアからも多くの男が太平洋を渡った。その一人で、カリフォルニアで地形を見てきたエドワード・ハーグレイヴスが、故郷の山にも同じような土地があると考えて探し、1851年2月、ニューサウスウェールズ植民地のバサースト近くで金を見つけた。植民地政府も、カリフォルニアへの人の流出が止まることを期待して、発見を認めた。

同じ年の7月、南のヴィクトリアがニューサウスウェールズから分かれて独立の植民地になった。その直後、バララットやベンディゴで、カリフォルニアをしのぐ量の金が見つかる。地表近くの砂利を洗えば金が出た。メルボルンの町からは人が消え、店員も船乗りも警官も、つるはしを持って金鉱へ向かったと言われる。港には、乗組員に逃げられた船が並んだ。
そして世界中から人が来た。イギリス、アイルランド、スコットランド、ドイツ、アメリカ、そして中国。ヴィクトリアの人口は、1851年の8万人足らずから、10年後には50万人を超えた。オーストラリア全体でも、10年で人口はほぼ3倍になった。1850年代、オーストラリアは世界の金の3分の1を超える量を産んだとされる。
採掘する者は、ヴィクトリア政府に月30シリングの採掘免許料を払わなければならなかった。金が出ても出なくても同じ額で、警官による免許の取り締まりは乱暴だった。しかも採掘者たちには選挙権が無い。不満は1854年12月、バララットで爆発した。採掘者たちは柵を巡らせた砦に立てこもり、南十字星の旗を掲げた。軍と警察が夜明けに襲いかかり、20数人の採掘者が死んだ(ユーレカ砦の反乱)。裁判にかけられた指導者たちは陪審で無罪になり、免許制度は廃止され、採掘者にも選挙権が与えられた。1856年、ヴィクトリアは投票の秘密を守る仕組みを取り入れ、のちに世界に広まった(秘密投票)。

中国からの移民も数万人規模で入った。多くは広東の出身で、出稼ぎの契約で来た男たちだった。1850年代の末には、ヴィクトリアの金鉱にいる中国人は4万人ほどに達し、成人の男のかなりの割合を占めた。彼らは集団で働き、ほかの者が掘り捨てた場所を丹念に掘り直して金を得た。言葉も服装も信仰も違う彼らに、白人の採掘者の反感が集まった。
1855年、ヴィクトリアは中国人の入国者一人につき10ポンドの人頭税を課し、船ごとに乗せられる人数を制限した。中国人たちは隣の南オーストラリアの港で船を降り、数百キロを歩いて金鉱へ向かった。1857年にはヴィクトリアのバックランド川で、1860年から翌年にかけてはニューサウスウェールズのラミング・フラットで、白人の採掘者が中国人の野営地を襲う暴動が起きた。各植民地は、中国人の入国を制限する法律を次々に作った。

金は、オーストラリアを変えた。メルボルンは金で潤い、銀行、劇場、大学、鉄道が次々に建ち、19世紀の後半には南半球で指折りの大都市になった。囚人の植民地という出発点は過去になり、自由な移民の社会としての自信が生まれた。
だが、金鉱で生まれた中国人への敵意も残った。1901年に六つの植民地が連邦としてまとまったとき、最初の議会が作った法律の一つが移民制限法だった。役人が選んだヨーロッパの言葉で書き取りの試験を課し、落としたい相手は言葉を選んで落とす。事実上、非白人の移民を締め出す仕組みで、白豪主義と呼ばれる。この政策が完全に撤廃されるのは1970年代になる。