できごと

ヘレロ・ナマ虐殺

Herero and Nama genocide
1904年 – 1908年
期間を持つできごと重要度 4
ヘレロ・ナマ虐殺に関わる図版:Herero and Nama prisoners
Herero and Nama prisoners Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

ドイツ領南西アフリカで、蜂起した人びとが砂漠へ追い込まれた。20世紀最初のジェノサイドと呼ばれる。

場所

ヴァーターベルク位置は特定されていない(誤差 ±30km)
-20.50°N 17.23°E · ナミビア

本文

アフリカの南西部、大西洋に面した乾いた土地(いまのナミビア)は、1884年にドイツの保護領になった(アフリカ分割)。内陸の高原では、ヘレロの人々が牛を飼って暮らし、南部ではナマの人々が首長たちのもとで暮らしていた。ドイツから入植者が来ると、牧畜に向いた土地と水場は少しずつ彼らの手に移った。1897年には牛疫がアフリカ南部を襲い(アフリカの牛疫)、ヘレロの牛の多くが死んだ。財産を失った人々は土地を売り、商人への借金のかたに家畜を取り上げられた。鉄道の建設とともに、居留地に押し込める計画も持ち上がっていた。

当時のドイツは、統一から30年あまりの新しい帝国で、皇帝ヴィルヘルム2世のもとで海外の植民地を広げようとしていた(ベルリン会議とアフリカ分割)。南西アフリカは、ドイツの植民地の中で唯一、多くの白人が住みつける土地と見なされ、本国から移民を送り込む計画が進められていた。ヘレロやナマの土地は、その計画の妨げとみなされていった。

ベルリン会議とアフリカ分割に関わる図版:Kongokonferenz
ベルリン会議とアフリカ分割Wikimedia Commons Adalbert von Roessler · Public domain

1904年1月、首長サミュエル・マハレロに率いられたヘレロが蜂起した。農場や駐屯地が襲われ、入植者の男性を中心に100人あまりが殺された。現地の総督ロイトヴァインは交渉による収拾も考えていたが、本国は強硬な鎮圧を選び、軍人ロタール・フォン・トロータを司令官として送り込んだ。

1904年8月、トロータはヴァーターベルクの台地に集まったヘレロを、家族や家畜ごと包囲した。戦いの後、ヘレロは包囲の手薄だった南東の方角へ逃れた。その先はオマヘケと呼ばれる砂漠である。ドイツ軍は追撃し、砂漠の縁の水場を押さえて、人々が戻るのを阻んだ。多くの人が、渇きと飢えで砂漠の中で死んだ。マハレロら一部は、砂漠を越えてイギリス領のベチュアナランド(いまのボツワナ)にたどり着いた。

死亡した捕虜の首級はドイツ帝国首都ベルリンのシャリテーに送られた(2011年と2013年に返還)
死亡した捕虜の首級はドイツ帝国首都ベルリンのシャリテーに送られた(2011年と2013年に返還)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

10月、トロータはヘレロに向けて布告を出した。ドイツの領内にいるヘレロは、銃を持っていようといまいと、家畜を連れていようといまいと撃ち殺す、女も子どもも受け入れず、追い返すか撃つ、という内容である。後に「絶滅命令」と呼ばれる。この布告は本国の批判を受けて年末に撤回されたが、生き残ったヘレロは捕らえられ、収容所に入れられた。

同じ10月、南部のナマも、老首長ヘンドリック・ヴィトボーイのもとで立ち上がった。ナマはゲリラ戦で数年にわたって抵抗したが、ヴィトボーイは1905年に戦死した。捕らえられたナマも収容所へ送られた。海辺の町リューデリッツの沖にあるシャーク島の収容所では、寒さと飢えと強制労働で、収容された人々の多くが死んだ。収容所は1908年に閉じられた。

テオドール・ロイトヴァイン(左に着席)、ザカリアス・ゼラウア(左から2人目)、マナセ・ツィセセタ(左から4人目、着席)、1895年
テオドール・ロイトヴァイン(左に着席)、ザカリアス・ゼラウア(左から2人目)、マナセ・ツィセセタ(左から4人目、着席)、1895年Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

犠牲の規模については幅があるが、ヘレロはおよそ8万人のうち8割前後、ナマはおよそ2万人のうち半数ほどが失われたとされる。生き残った人々は土地と家畜を奪われ、入植者の農場で働かされた。死者の頭蓋骨の一部は、人種を研究する材料としてドイツへ送られた。その返還が始まったのは2011年のことである。

収容所の死者や、虐待の様子を記録した証言は、第一次世界大戦中にこの地を占領したイギリスが1918年にまとめた報告書にも残されている。この報告書は、ドイツから植民地を取り上げる理由づけに使われた面もあり、戦後に一度は回収されて忘れられた。同じような暴力は、同時代のコンゴ自由国などでも起きていたが、国家の司令官が民族そのものの排除を文書で命じた例として、この出来事は特に重く見られている。

この出来事は、20世紀最初のジェノサイドと呼ばれることが多い。収容所、民族を丸ごと消し去ろうとする命令、人種の学説との結びつきから、後のホロコーストへの連続を見る研究者もいるが、その見方には異論もある。ドイツは長く、植民地戦争の一場面として扱ってきた。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

2021年5月、ドイツ政府はこれを今日の視点から見てジェノサイドであったと認め、許しを請うと表明した。あわせて、30年かけて11億ユーロを復興と開発の支援に充てることでナミビア政府と合意した。しかし、ヘレロやナマの代表の一部は、交渉から外されたこと、賠償と呼ばれていないことに反発し、合意はなお最終的な決着に至っていない。

同じ時代のできごと

秩父事件AD1884年ごみ箱AD1884年3月7日アフリカ分割1884年本初子午線会議AD1884年10月1日万年筆AD1884年ベルリン会議とアフリカ分割1884年11月内閣制度の創設AD1885年12月22日狂犬病のワクチンAD1885年7月6日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1904年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →