できごと

メディア王国とエクバタナ

Media and Ecbatana
BC612年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民原アルタイ系の牧畜民カラスク文化西アフリカの穀作農民チベット系諸集団イラン系の牧畜民北欧青銅器時代の諸文化ヴェーダ期のアーリヤ人アラビアの牧畜遊牧民骨壺墓地(アーンフィールド)文化キンメリアベルベル系の人びとドラヴィダ系の人びとビルマ系の人びと新バビロニアProto-Scythian cultureヒッタイトアラム人エラム国家群とアラム系諸王国Chernoles cultureエチオピア高原の農民Lusatian cultureウラルトゥクシュ王国トラキアMilograd cultureイリュリア人エジプトフリュギア人イスラエル王国ギリシア諸ポリスBabyloniaサバア王国BC612年エクバタナ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC612年の版図を描いています(36勢力)。

概要

バビロニアと組んでニネヴェを落とし、イラン高原の最初の大国になった。70年後、属国だったペルシアに取って代わられる。

場所

エクバタナ
34.80°N 48.51°E · イラン・ハマダーン

本文

イラン高原の西の縁を、ザグロス山脈が北西から南東へ走っている。メディア人は、この山々と高原にまたがって暮らしたイラン系の人びとで、馬を育て、谷ごとに小さな首長を戴いていた。その名が初めて記録に現れるのは紀元前9世紀、西の大国アッシリアの王の碑文の中である。アッシリアは毎年のようにザグロスへ遠征し、メディアの首長たちから馬と貢ぎ物を取り立てた(新アッシリア帝国)。

ギリシアの歴史家ヘロドトスは、メディアの王国の始まりをこう語る(ヘロドトス『歴史』)。村々の争いを公正に裁いて評判を得たデイオケスという男が、人びとに推されて王になった。彼は都エクバタナを築き、丘の上に七重の城壁をめぐらせた。外側から白、黒、紫、青、橙と色を塗り分け、内側の二つは銀と金で覆ったという。王は宮殿の奥にこもって人前に姿を見せず、訴えは文書で取り次がせた。これがどこまで史実かは分からない。エクバタナはいまのイランのハマダーンの町の下に眠っていて、発掘では七重の城壁は確かめられていない。

ヘロドトス『歴史』に関わる図版:POxy v0017 n2099 a 01 hires
ヘロドトス『歴史』Wikimedia Commons Unknown · Public domain

メディアが歴史の表舞台に出るのは、キュアクサレス王の時代である。ヘロドトスによれば、彼は槍兵、弓兵、騎兵を別々の部隊に編成し直した。紀元前614年、メディア軍はアッシリアの古い聖都アッシュルを攻め落とす。そこへ遅れて着いた新バビロニアの王ナボポラッサルと同盟を結び、紀元前612年、両軍はともにアッシリアの都ニネヴェを囲んで落とした(ニネヴェ陥落)。300年にわたって近東を恐れさせた帝国は、数年のうちに地図から消えた。同盟の証として、メディアの王女がバビロニアの王子ネブカドネザルに嫁いだとも伝えられ、山の国から来た王妃のために造られたのが「空中庭園」だという話は、後の時代の著述家が伝えている。

アッシリアの遺産は二つに分けられた。バビロニアはメソポタミアの平野とシリア・パレスチナを取り、メディアは北のザグロスからアルメニア、アナトリアの東部へと広がった。西へ進んだメディアは、小アジアのリュディア王国とぶつかる(ギュゲスのリュディア)。5年にわたって決着のつかなかった戦いの6年目、紀元前585年の会戦のさなかに日食が起き、昼が夜に変わった。両軍は神のしるしと恐れて戦いをやめ、ハリュス川を境とする和を結んだとヘロドトスは書く。この日食はタレスが予言していたとされ(タレスの日食予言)、天文学の計算から年代が確かめられる古代の数少ない戦いになっている。

ギュゲスのリュディアに関わる図版:Der Ring des Gyges (Ferrara 16 Jh)
ギュゲスのリュディアWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

メディアの最後の王アステュアゲスは、ヘロドトスの物語では、南の属国ペルシアに嫁がせた娘の子に国を奪われる夢を見て、生まれた孫を殺させようとした。その孫がキュロスである。羊飼いに育てられて生き延びたキュロスは、紀元前550年ごろ兵を挙げ、アステュアゲスの将軍の寝返りもあってメディア王を捕えた(キュロス2世)。物語の細部は伝説だが、ペルシアがメディアの属国の立場から主君を倒したことは、バビロニアの記録からも確かめられる。

メディアの国家はここで終わったが、その中身は消えなかった。キュロスはエクバタナを奪うとその宝物をペルシアへ運ばせ、メディアの貴族を重く用いた。アケメネス朝ペルシアの宮廷の儀礼や役所の仕組みには、メディアを経てアッシリアから受け継がれたものが多いと考えられている。エクバタナは高原の涼しい夏の都になり、王の宝物庫が置かれた。ペルシアの神官を務めたマゴイも、ヘロドトスはメディアの一部族だと書いている。

ハマダーン近郊のアルヴァンド山中にあるギャンジ・ナーメ碑文(Ganj Nameh)
ハマダーン近郊のアルヴァンド山中にあるギャンジ・ナーメ碑文(Ganj Nameh)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Hara1603 assumed (based on copyright claims). · Public domain

ギリシア人は、その後も長くペルシア人を「メディア人」と呼んだ。ペルシア戦争の時代、ペルシアの側についたギリシア人は「メディアにくみした」と非難された。もっとも、近年の研究では、メディアがアッシリアやペルシアに並ぶ整った帝国だったのか、緩やかな部族の連合にすぎなかったのかが問い直されている。メディア人自身の書いた記録は一つも見つかっていないからである。私たちが知るメディアの多くは、敵だったアッシリアと、後の時代のギリシア人の目を通したものでしかない。

同じ時代のできごと

ドンソンの銅鼓BC6世紀頃(BC10〜BC1世紀)リュディアの鋳造貨幣BC7世紀後半城濮の戦いBC632年ペリアンドロスのコリントスBC627年ヨシヤの改革BC622年ドラコンの成文法BC621年ニネヴェ陥落BC612年エレミヤの預言BC609年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC612年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →