ソンニ・アリ
概要
川の船団と騎兵でトンブクトゥとジェンネを取り、ソンガイを帝国にした。ウラマーを弾圧したため、イスラームの年代記では暴君として書かれている。
所属
ソンガイ帝国関わったできごと(2)
アスキア・ムハンマドのソンガイ1493年 · その前代ソンガイ帝国の最盛期AD1500年頃 · 版図を広げた王本文
生年は分からない。西アフリカのニジェール川の中流、大きく湾曲した流れのほとりの町ガオを本拠とするソンニ家の王族に生まれた。ソンガイの人々は古くから川の民で、漁と舟運で暮らし、ガオは北のサハラを越える隊商が集まる交易の町だった。
14世紀、この地域はマリ帝国の支配下にあった。マンサ・ムーサが大量の金を携えてメッカへ巡礼し、カイロの金相場を下げたと言われる時代である(マンサ・ムーサの巡礼)。ガオもマリに服属していた。だが15世紀になると、マリの力は衰え、北からはサハラの遊牧民トゥアレグが、南からはモシの騎馬軍が、ニジェール川の町々を脅かすようになった。

1464年、ソンニ・アリは王位に就いた。ここから死ぬまでの28年間、彼はほとんど休みなく戦い続けた。軍の強みは二つあった。一つは、ニジェール川を自在に行き来する舟の船団である。兵や馬を舟で運び、川沿いのどこにでも素早く軍を現すことができた。もう一つは騎兵だった。川と陸を組み合わせた機動で、彼は敵が備える前に襲いかかった。年代記は、彼が一度も負けなかったと書く。
1468年頃、学問と交易の町トンブクトゥを、支配していたトゥアレグから奪った。トンブクトゥは、モスクと学者の町として、イスラーム世界に知られていた。次いで、川の上流の商業都市ジェンネを囲んだ。ジェンネは川の氾濫で周りが水に浸かる町で、攻めるのは容易ではなかった。言い伝えでは、包囲は7年7か月7日続き、1473年頃に町は降った。こうしてソンガイは、ガオ周辺の一勢力から、ニジェール川の中流域を支配する国へと広がった(ソンガイ帝国)。
征服の後、ソンニ・アリはトンブクトゥの学者たちに厳しく当たった。学者の一部が、敵のトゥアレグと結びついていたと見たためと考えられている。学者を殺し、追放し、多くの学者が西のサハラの町ワラタへ逃れた。一方で、王が厚遇した学者もいたことが記録に残る。
ソンガイの年代記は、ソンニ・アリを「大暴君」と呼び、残酷な振る舞いを数多く書き連ねている。ただし、その年代記が書かれたのは、彼の死から150年ほど後の17世紀で、書いたのはトンブクトゥの学者たちだった。迫害された側の子孫の筆である。年代記はまた、彼が祈りを形だけで済ませ、呪術を使ったと非難している。ソンニ・アリはムスリムを名乗っていたが、ソンガイの土地の神々や祖先の霊を祀る伝統的な信仰の担い手としての顔も持っていた。農民や川の民の多くにとって、王の力はその霊力に支えられていた。
その二つの顔のために、彼の評価は語り手によって正反対になる。イスラームの学者の書いた歴史では神を畏れぬ暴君であり、ソンガイの人々が口で語り継いできた伝承では、魔術の力を持ち、敵を打ち破った英雄である。
ソンニ・アリは、川の水運をさらに広げようとしていたらしい。年代記には、北西の町ワラタまで舟で軍を送るために、運河を掘らせはじめたという話がある。工事は途中で放棄された。
1492年、南方への遠征から帰る途中、川を渡ろうとして溺れ死んだとされる。暗殺されたという説もある。跡を継いだ息子のソンニ・バルは、ムスリムとしての信仰を公に示すよう求められて拒んだ。翌1493年、父に仕えていた将軍ムハンマド・トゥーレが兵を挙げてバルを破り、王位を奪った。これがアスキア・ムハンマドである(アスキア・ムハンマドのソンガイ)。
アスキア・ムハンマドはイスラームを前面に掲げ、メッカへ巡礼し、学者たちを重く用いた。ソンガイはその下で最盛期を迎える。ただ、その帝国の領土の骨組みは、ソンニ・アリが川と馬で切り取ったものだった。書く人々に嫌われた王が帝国を作り、書く人々を厚くもてなした王がその帝国を受け継いで讃えられた。西アフリカの歴史が、誰の筆で書かれてきたかを示す一つの例である。