アッシリアの強制移住
概要
征服した民を丸ごと別の土地へ移し、混ぜて住まわせた。反乱の芽を絶つ統治術で、450万人が動かされたと推定される。帝国という形の発明の一つになる。
場所
36.36°N 43.15°E · イラク・ニーナワー県(モースル)
本文
アッシリアは、ティグリス川の上流、いまのイラク北部に興った国だった。紀元前9世紀から、毎年のように遠征に出て周りの国々から貢ぎ物を取り立てた。ただ、それだけでは長続きしない。軍が引き揚げれば、従えたはずの王たちは貢ぎを止め、隣の国と組んで背く。そのたびにまた遠征し、町を焼き、反乱の首謀者を見せしめに殺す。征服しては背かれる、の繰り返しだった。
紀元前745年に王位についたティグラト・ピレセル3世は、このやり方を根本から変えた。従えた国に王を残して貢がせるのではなく、王を取り除いて属州に組み込み、アッシリアの総督を置く。そしてもう一つ、征服した土地の住民を、大規模に、計画的に別の土地へ移した。強制移住そのものは以前からあったが、ティグラト・ピレセル3世の代から、その規模と頻度がけた違いになる。新アッシリア帝国(新アッシリア帝国)の統治の柱になった。

移されたのは、王族や貴族、兵士だけではない。職人も農民も、家族ごと。王宮の浮き彫りには、荷物を背負い、子を荷車に乗せ、家畜を引いて歩く男女の列が刻まれている。女性や子どもが一緒に描かれていることが、家ごと動かされたことを示している。
移した先は、遠く離れた、別の言葉を話す土地だった。東の山地の民を西の地中海岸へ、西の民を東のイランの山地へ、というように、帝国の端から端へ人を入れ替えた。移した後には、別の土地から連れてきた人びとを住まわせる。同じ言葉と神々を持つ集団が、故郷の土地で固まらないようにするためだった。見知らぬ土地で隣人とも言葉が通じない人びとは、まとまって反乱を起こしにくい。頼れるのは、アッシリアの王だけになる。

数字が王の碑文に残っている。サルゴン2世はイスラエル王国の都サマリアを落としたとき、2万7千人あまりを連れ去ったと記した(イスラエル王国の滅亡)。センナケリブは紀元前701年のユダへの遠征で20万人あまりを連れ去ったと誇るが、これは大きく誇張されていると見られている。研究者の推定では、約300年のあいだに、合わせて450万人ほどが動かされたという。碑文の数字に誇張があることを考えても、古代としては途方もない人の移動だった。
移された人びとは、ただの奴隷にされたわけではなかった。碑文はしばしば、彼らを「アッシリアの民に数えた」と書く。荒れた土地や新しく開く土地に入植させられ、土地と種と道具を与えられて耕した。王たちが新しい都を建てるときには、その労働力になった。腕の立つ職人は王宮の工房へ、若い男は軍へ送られた。殺すより、働かせて税を取るほうが得になる。反乱を防ぐ策であると同時に、帝国全体で人と労働力を配り直す経済の政策でもあった。
聖書の『列王記』は、サマリアが落ちたあとの様子をこう書く。アッシリアの王はイスラエルの民を東の地へ移し、代わりにバビロンなどの町から人びとを連れてきてサマリアに住まわせた。移ってきた人びとは、もとの神々とともにイスラエルの神も拝むようになった。のちにユダヤ人と対立するサマリア人の起源を、聖書はここに置いている。そして連れ去られた北イスラエルの10部族は、ほかの民に混じって行方が分からなくなった。「失われた10部族」として、後世さまざまな伝説を生むことになる。
こうして帝国中に、言葉の違う人びとが混ざって住むようになると、共通の言葉が要る。広まったのはアッシリア語ではなく、シリアの一帯で話されていたアラム語だった。移された人びとの中で、アラム語を話す者がとくに多かったためとされる。粘土板に楔形文字を刻むアッシリア語に対し、アラム語は22文字ほどのアルファベットで、皮やパピルスにインクで書ける。王宮の浮き彫りには、粘土板に書く書記と、巻物に書く書記が並んで描かれるようになる。
『列王記』には、紀元前701年、エルサレムの城壁の前でアッシリアの使者が呼ばわったとき、ユダの役人たちが、民に分からないよう、ユダの言葉ではなくアラム語で話してほしいと頼む場面がある(センナケリブのエルサレム包囲)。外交の場の言葉は、すでにアラム語になっていた。アラム語はやがて帝国の行政の言葉になり、アッシリアが滅びた後も、ペルシアの帝国(アケメネス朝ペルシア)が公用の言葉として引き継いだ。イエスの時代のパレスチナで人びとが日常に話していたのも、このアラム語になる。
強制移住は、アッシリアのあとも受け継がれた。紀元前6世紀、新バビロニアはユダの人びとをバビロンへ連れ去る(バビロン捕囚)。だが、移された人びとの恨みも積み重なっていた。紀元前612年、メディアとバビロニアの連合軍に都ニネヴェを落とされ(ニネヴェ陥落)、アッシリアは急速に滅んだ。

ペルシアのキュロス2世は、反対に、移された民が故郷へ帰ることを許して支持を得た(キュロスのバビロン征服)。征服した民を混ぜて故郷の結びつきを断つことで広い領域をまとめる。その手法は、帝国という形の最初の発明の一つだった。そしてそれへの反動もまた、次の帝国の統治のやり方を形づくっていった。