人物

カール12世

Charles XII
AD1682年6月17日 – AD1718年11月30日(享年36)
スウェーデン帝国重要度 3

概要

15歳で即位し、18歳でナルヴァに勝った。ロシア奥地への遠征でポルタヴァに敗れ、オスマンで5年過ごし、帰ってノルウェーの塹壕で撃たれた。

所属

スウェーデン帝国

関わったできごと(1)

ポルタヴァの戦いAD1709年7月8日 · 総指揮。敗走

本文

1682年、スウェーデン王カール11世の長男としてストックホルムで生まれた。当時のスウェーデンは、三十年戦争とその後の戦いでバルト海の周りに領土を広げ、フィンランド、エストニア、リヴォニア(いまのラトビア北部)、北ドイツの一部までを支配する大国だった(スウェーデン帝国)。父のカール11世は、貴族から領地を取り戻して王の力を強め、国の財政と軍を立て直した人だった。

カール12世の肖像
カール12世の肖像Wikimedia Commons Workshop of Hyacinthe Rigaud · Public domain

1697年、父が死に、カールは15歳で王位についた。半年あまり後には成年と宣言され、自ら政治を執ることになる。戴冠式では、大主教の手を待たずに自ら王冠をかぶったと伝えられる。若い王は熊狩りや無茶な遊びで周りを驚かせ、隣国の君主たちは、この少年王の国なら奪えると考えた。

1700年、三つの国がほぼ同時にスウェーデンに攻めかかった。デンマーク、ザクセン選帝侯でポーランド王を兼ねるアウグスト2世、そしてロシアのピョートル1世である。大北方戦争の始まりだった。

イヴァン・マゼーパとカール12世
イヴァン・マゼーパとカール12世Wikimedia Commons Gustaf Cederström · Public domain

カールの反撃は速かった。まず艦隊でデンマークの都コペンハーゲンの近くに上陸し、わずか数週間でデンマークを講和に追い込んだ。次に海を渡ってバルト海の東岸へ向かい、ロシア軍が包囲していたナルヴァの町を救いに行った。1700年11月、1万人ほどのスウェーデン軍は、吹雪の中、その3倍以上のロシア軍の陣地に襲いかかった。雪が敵の顔に吹きつける中での突撃で、ロシア軍は崩れ、多くの将軍が降伏した。18歳の王は一躍ヨーロッパに名を知られた。

それから18年、カールは戦場を離れなかった。若いころは酒も飲んだが、戦争が始まってからは酒を断ち、生涯結婚せず、兵と同じ粗末な食事をとり、野営地のわらの上で眠ったと伝えられる。危険をものともせず自ら先頭に立ち、その勇敢さは兵の崇拝を集めた。

グスタヴ・セーデルストレムによる『カール12世の葬送』。スウェーデン国立美術館蔵。
グスタヴ・セーデルストレムによる『カール12世の葬送』。スウェーデン国立美術館蔵。Wikimedia Commons Gustaf Cederström · Public domain

ナルヴァの後、カールはロシアを追わず、ポーランドに向かった。アウグスト2世を王座から追い落とすことにこだわり、6年をかけてポーランドを転戦した。1704年には自分の推す貴族スタニスワフ・レシチニスキをポーランド王に立て、1706年にはアウグストのザクセンにまで攻め込んで、王位を正式に放棄させた。だがこの間に、ピョートルはバルト海の奥のネヴァ川の河口を押さえ、サンクトペテルブルクの町を築き、軍を西洋式に作り変えていた。

1707年、カールはついにロシアに向かった。モスクワを目指したが、ロシア軍は畑と村を焼きながら退き、スウェーデン軍は食糧に困った。カールは南のウクライナへ進路を変え、ロシアの皇帝に背いたコサックの首領マゼーパと手を結んだ。だが援軍を連れてくるはずだった別働隊は途中で敗れて補給を失い、1708年から翌年の冬は、ヨーロッパ中で鳥が凍えて落ちたといわれるほどの厳冬だった。多くの兵が凍傷と病で倒れた。

1709年6月、ウクライナのポルタヴァで決戦が行われた(ポルタヴァの戦い)。直前の偵察で足を撃たれていたカールは、担架に乗って指揮をとった。数で大きく勝るロシア軍は、堅固な陣地と大砲でスウェーデン軍を迎え撃ち、スウェーデン軍は壊滅した。数日後、逃げ場を失った残りの軍は降伏した。カールは少数の供とともに南へ逃れ、オスマン帝国の領内に入った。

ポルタヴァの戦いに関わる図版:Marten's Poltava
ポルタヴァの戦いWikimedia Commons Pierre-Denis Martin · Public domain

オスマン領のベンデル(いまのモルドバ)に留まったカールは、そこから5年間、スルタンにロシアと戦うよう説き続けた。1711年、オスマン軍はピョートルの軍をプルート川のほとりで包囲し、追い詰めたが、ロシアに有利な条件で和を結んでしまった。やがてカールの長居はオスマン側の重荷になった。1713年、退去を求められても応じないカールの館をオスマンの兵が囲み、カールは数十人の供とともに剣を抜いて戦い、館に火をかけられて捕らえられた。

1714年の秋、カールはわずかな供を連れ、身分を隠して馬を走らせ、ハンガリーからドイツを抜けて、2000キロ以上を約2週間で駆け、スウェーデン領のシュトラールズントにたどり着いた。15年ぶりの自国の土だったが、その町も翌年には敵に包囲されて落ち、カールはようやくスウェーデン本国に戻った。

カール12世の両親、カール11世とウルリカ・エレオノーラの婚姻記念メダル(1680年)
カール12世の両親、カール11世とウルリカ・エレオノーラの婚姻記念メダル(1680年)Wikimedia Commons Anton Meybusch · Public domain

国は疲れ切っていた。長い戦争で多くの男たちが死に、重い税と、価値の保証の無い緊急の貨幣で経済は混乱していた。それでもカールは戦いをやめなかった。デンマーク領だったノルウェーを奪えば、講和の取引材料になると考え、1718年、自ら軍を率いてノルウェーに攻め込んだ。

その年の11月30日(当時スウェーデンが使っていたユリウス暦の日付。いまの暦では12月11日)の夜、フレドリクステン要塞を囲む塹壕で、身を乗り出して敵の様子を見ていたカールは、頭を撃ち抜かれて即死した。36歳だった。弾が要塞から飛んできたものか、戦争に疲れた味方の誰かが撃ったものかは、当時から噂になった。遺体はのちに何度も墓から出されて調べられたが、いまも決着はついていない。

15歳で即位したカール12世(1697年)、エーレンストラール工房の絵
15歳で即位したカール12世(1697年)、エーレンストラール工房の絵Wikimedia Commons Workshop of David Klöcker Ehrenstrahl · Public domain

カールの死で、スウェーデンの大国の時代は終わった。1721年の講和で、バルト海の東岸の領土はロシアのものになり、ロシアがバルト海の大国として台頭する。スウェーデンでは王の力が大きく制限され、議会が政治を動かす「自由の時代」が始まった。

フランスのヴォルテールは、カールの劇的な生涯を『カール12世伝』に書いた。勇敢さと頑固さで国を栄光の頂点から崩壊へと導いた王として、カールは今もスウェーデンで英雄とも、国を滅ぼしかけた王ともいわれ、評価が分かれている。

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