リチャード1世(獅子心王)
概要
10年の在位のうちイングランドにいたのは半年。フランス語で話し、十字軍でサラディンと戦い、帰りに捕えられて身代金で戻った。城攻めの最中に弩の矢を受けて死んだ。射た少年を赦した、と伝わる。
関わったできごと(1)
第三回十字軍のアッコン攻囲AD1191年7月12日 · イングランド王本文
1157年9月8日、イングランドのオックスフォードに生まれた。父はイングランド王ヘンリー2世、母は南西フランスの広大なアキテーヌ公領の女相続人、エレノア・オブ・アキテーヌである。両親はイングランドからフランス西部の大半にまたがる領地を支配していた。成人した息子の中では次男だったが、兄が先に亡くなったため、のちに王位を継ぐことになる。言葉は、当時のイングランドの支配層のことばであるフランス語と、母の故郷の南フランスの言葉で、英語はほとんど話せなかったと考えられている。母の宮廷の吟遊詩人の文化の中で育ち、自らも詩を作った。

少年の頃から母の領地アキテーヌを任され、1172年にはアキテーヌ公となった。父との関係は険しかった。1173年、母と兄弟たちとともに父に対して反乱を起こしたが、敗れて許された。その後はアキテーヌで反抗的な諸侯を次々に攻め、戦場の指揮官としての名を上げた。その勇猛さから、獅子心(ライオン・ハート)と呼ばれるようになる。1183年に兄が亡くなると、リチャードは跡継ぎの立場になった。だが父は、末の息子のジョンをかわいがった。リチャードはフランス王フィリップ2世と組んで再び父に挑み、1189年、追いつめられた父は敗北を認めた直後に亡くなった。
1189年9月、リチャードはウェストミンスターで戴冠した。この日、ロンドンでユダヤ人への襲撃が起きた。暴力は各地に広がり、翌1190年3月、ヨークでは城に逃げ込んだユダヤ人たちが包囲され、多くが自ら命を絶ち、残った者も殺された。十字軍の熱気が、異教徒への敵意をかき立てていた。

2年前、サラディンがエルサレムを奪い返していた(サラディンのエルサレム奪還)。リチャードは即位するとすぐ、十字軍に出る準備にかかった。資金を集めるために、官職や城、特権を次々と売り払った。買い手さえいればロンドンでも売る、と言ったと年代記作者は伝える。スコットランド王からは金を受け取って、イングランド王への臣従の義務を免除した。
1190年夏、リチャードはフランス王フィリップと連れ立って出発した。シチリアで冬を越し、妹の持参金をめぐって現地の王と争ってメッシーナの町を占領した。翌1191年、聖地へ向かう途中で、嵐で散った船団の一部がキプロス島の支配者に捕らわれると、島を攻めて征服した。キプロスでナヴァラ王の娘ベレンガリアと結婚している。6月、パレスチナの港町アッコンの包囲戦に加わった(第三回十字軍のアッコン攻囲)。陸路で向かっていた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)はすでに前年に溺死していた。

7月、2年近い包囲の末にアッコンは降伏した。町に旗を立てたオーストリア公レオポルトに対して、リチャードの部下がその旗を引きずり下ろして投げ捨てたという話が伝わる。フランス王フィリップは病を理由にまもなく国へ帰った。8月、サラディンとの捕虜交換の約束が守られないと見たリチャードは、降伏したイスラーム教徒の捕虜およそ2700人を、サラディンの陣から見える場所で処刑させた。
9月、海岸沿いに南下する十字軍は、アルスーフでサラディンの軍の攻撃を受けたが、リチャードの指揮でこれを退けた。だが、内陸のエルサレムを取ることはできなかった。リチャードは二度、エルサレムの近くまで軍を進めたが、いずれも引き返した。たとえ町を取っても、十字軍の兵が国へ帰れば守り切れないと判断したからだとされる。リチャードとサラディンは戦いながら使者を送り合い、リチャードが病に倒れたときサラディンが果物と雪を届けたという話も伝わる。1192年9月、両者はヤッファで3年の休戦を結んだ。十字軍は海岸の町々を保ち、キリスト教徒の巡礼はエルサレムに入ることを許された。

帰り道、リチャードの船はアドリア海で難破した。変装して陸路でドイツを抜けようとしたが、12月、ウィーンの近くで、アッコンで恨みを買ったオーストリア公レオポルトに捕らえられた。リチャードは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡された。身代金は銀15万マルクとされ、当時のイングランド王室の収入の何年分にもあたる巨額だった。70歳を超えていた母エレノアが、国中から税を集めて工面した。1194年2月、リチャードは解放された。その間、弟のジョンはフランス王と結んで兄の領地を奪おうとしていた。
イングランドに戻ったリチャードは、王権を確かめるために改めて戴冠の儀式を行ったが、わずか2か月ほどで海を渡ってフランスへ向かい、二度とイングランドに戻らなかった。残りの5年は、ノルマンディーなどの領地を奪おうとするフランス王フィリップとの戦いに費やした。セーヌ川を見下ろす崖の上に、わずか2年ほどで巨大な城、シャトー・ガイヤールを築いた。

1199年3月、リチャードはフランス中部のリムーザン地方で、反抗した領主の小さな城、シャリュを囲んでいた。夕暮れ、鎧を十分に着けないまま城壁の近くを見回っていたところ、城壁の上から放たれた弩の矢が肩に刺さった。矢を抜く手当ては失敗し、傷は壊疽になった。死を悟ったリチャードは矢を射た者を呼び、その罪を許して金を与えたと年代記は伝える。4月6日、リチャードは41歳で亡くなった。射手は、王の死後、王の傭兵隊長の手で皮を剥がれて殺されたとも記されている。遺体は母の眠るフォントヴロー修道院に葬られた。
在位およそ10年のうち、リチャードがイングランドにいたのは合わせて半年ほどにすぎない。王国は彼にとって、戦いのための資金の出どころだった。王位は弟のジョンが継ぎ、ジョンはノルマンディーを失ったうえ、諸侯にマグナ・カルタを認めさせられることになる(マグナ・カルタ)。それでもリチャードは、十字軍の英雄として、のちにはロビン・フッドの物語に登場する正しい王として、イングランドの人々に語り継がれた。ロンドンの国会議事堂の前には、剣を掲げたリチャードの騎馬像が立っている。