インドの独立

概要
非暴力の運動が帝国を退かせた。同時にインドとパキスタンに分かれ、1000万人以上が移動する。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
関わった人(5)
ムハンマド・アリー・ジンナーAD1876年12月25日–AD1948年9月11日 · パキスタン側アンベードカルAD1891年4月14日–AD1956年12月6日 · 憲法の起草ジャワハルラール・ネルーAD1889年11月14日–AD1964年5月27日 · 初代首相スバス・チャンドラ・ボースAD1897年1月23日–AD1945年8月18日(航空機事故とされるが異説が絶えない) · 別の道を主張したガンディーAD1869年10月2日–AD1948年1月30日 · 運動を率いた本文
インドの独立を求める運動の始まりは、1885年のインド国民会議の創立にさかのぼる。初めのうち、会議派は都市の弁護士や知識人を中心とする穏健な集まりで、イギリスの支配のもとで、インド人の政治への参加を少しずつ広げることを求めていた。1905年、イギリスがベンガルを宗教で分けようとしたベンガル分割に反発が広がり、イギリス製品を拒む運動が起きた。
流れを大きく変えたのがガンディーだった。南アフリカでインド人の権利のために闘ってきたガンディーは、1915年にインドへ戻った。1919年のアムリトサル虐殺の後、イギリスへの協力に見切りをつけ、1920年から非協力運動を始めた。真理を固く守り、暴力を使わずに不正な法に従わないという方法は、都市の知識人だけでなく、農村の大衆を運動に引き込んだ。1930年の塩の行進は、塩という誰もが使う物を通して、植民地支配の不正を世界に示した。

しかし、運動の中には別の亀裂も育っていた。ヒンドゥー教徒が多数を占める会議派に対して、イスラーム教徒の政治家たちは、独立後のインドで自分たちが少数派として抑えられることを恐れた。全インド・ムスリム連盟を率いたムハンマド・アリー・ジンナーは、もとは会議派に属し、ヒンドゥーとイスラームの協調を説いていた人物だった。しかしやがて、イスラーム教徒は一つの民族だという立場に移り、1940年には、イスラーム教徒が多い地域に独立した国を作ることを求める決議を採択させた。
1939年、第二次世界大戦が始まると、インド総督はインドの政治家に相談しないまま、インドの参戦を宣言した。会議派はこれに抗議し、1942年には、イギリスにインドから即時に出ていくよう求める運動を始めた。ガンディーやジャワハルラール・ネルーら指導者は一斉に投獄された。その間に、ムスリム連盟は勢力を伸ばした。

非暴力とは別の道を選んだ者もいた。会議派の議長を務めたこともあるスバス・チャンドラ・ボースは、武力でイギリスを追い出すべきだと考え、ドイツへ、さらに日本へ渡った。日本軍の捕虜となったインド兵などを集めてインド国民軍を率い、1944年には日本軍とともにインド北東部のインパールへ攻め込んだが、敗れた。ボースは1945年8月、台湾での飛行機事故で死んだとされる。
戦後、インド国民軍の将校たちがデリーで裁かれると、インド中で抗議が起きた。1946年2月には、ボンベイでインド人の水兵たちが反乱を起こした。イギリスは、インド人の兵士の忠誠にもはや頼れないことを思い知らされた。戦争で疲れ果て、財政も苦しいイギリスに、インドを力で押さえ続ける余力は残っていなかった。非暴力の運動が帝国を退かせたことは確かだが、こうした事情も独立を早めた。

独立の交渉は、インドを一つの国として残すか、分けるかで行き詰まった。1946年8月16日、ムスリム連盟がパキスタンを求めて呼びかけた「直接行動の日」に、カルカッタで大規模な宗教暴動が起き、数日で数千人が殺された。暴動は東ベンガルのノアカリやビハールなどに広がった。ガンディーはノアカリの村々を歩いて回り、和解を説いた。
1947年2月、イギリスのアトリー首相は、遅くとも1948年6月までにインドから手を引くと発表した。3月に最後の総督として着任したマウントバッテンは、分離はもはや避けられないと判断し、6月、インドとパキスタンの二つの国に分けて権力を移す案を発表した。そして独立の日を、予定より10か月早い1947年8月15日に繰り上げた。

準備の時間は、まったく足りなかった。パンジャーブとベンガルを宗教の分布で分ける国境線は、インドに来たことのなかったイギリスの法律家ラドクリフが、わずか5週間ほどで引いた。ラドクリフ・ラインが公表されたのは、独立の2日後だった。自分の村がどちらの国に入るのか分からないまま、人々は独立の日を迎えた。
8月14日の真夜中、デリーの制憲議会でネルーが演説した。世界が眠る真夜中の時を告げる鐘とともに、インドは生と自由に目覚める、と。前日にパキスタンが独立し、ジンナーが初代総督となった。ガンディーは独立の式典には出なかった。暴動の続くカルカッタで、断食と祈りのうちにその日を過ごしていた。
インド・パキスタン分離は、人類の歴史でも最大級の人の移動を引き起こした。ヒンドゥー教徒とシク教徒はインドへ、イスラーム教徒はパキスタンへ、1000万人以上が国境を越えた。その途中で、あるいは自分の村で、各地で殺し合いが起きた。死者は数十万から100万を超えるまで、推計に大きな幅がある。多くの女性が連れ去られ、暴行を受けた。藩王が治めていたカシミールの帰属をめぐっては、独立の直後から戦争が始まった。カシミールの帰属をめぐる争いは、いまも解決していない。

ガンディーは、宗教どうしの和解のために断食を続けた。その姿勢は、イスラーム教徒に甘いと憎むヒンドゥー至上主義者の怒りを買った。1948年1月30日、ガンディーはデリーで祈りの集会に向かう途中、ヒンドゥー至上主義の青年に撃たれて死んだ。ガンディーの暗殺は、独立からわずか5か月後のことだった。
1950年、インドはインド憲法の施行で共和国になった。起草の委員会を率いたのは、不可触民とされた人々の出身で、差別の撤廃のために闘ったアンベードカルである。憲法は不可触民の差別を禁じ、すべての成人に選挙権を与えた。パキスタンは、1971年に東側がバングラデシュとして分かれた。インドとパキスタンは、その後も何度も戦い、ともに核兵器を持つようになった。独立と分離は、同じ日に生まれた二つの顔だった。