インド大反乱

概要
鎮圧の後、ムガル帝国は名実ともに消え、インドは英国の直接統治下に入る。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
本文
1857年5月10日の夕方、デリーの北東約60キロの軍営都市メーラトで、東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、英語ではセポイ)が蜂起した。イギリス人の将校とその家族を襲い、獄につながれていた仲間を解き放つと、その夜のうちにデリーへ向かった。翌11日にデリーに入った兵たちは、城の中で年金暮らしをしていた81歳のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を担ぎ、皇帝の名のもとに戦うと宣言した。
直接のきっかけは、新しく配られたエンフィールド銃の薬包だった。紙の薬包の端を歯で噛み切って火薬を込める方式で、その紙に牛と豚の脂が塗られているという噂が広まった。牛はヒンドゥーにとって神聖で、豚はムスリムにとって不浄である。どちらの兵にとっても、口にすれば信仰を汚すことになる。会社はあわてて脂を自分で塗ってよいことにしたが、疑いは消えなかった。メーラトでは、薬包を拒んだ騎兵85人が軍法会議で禁錮刑を受け、5月9日に全軍の前で足枷をはめられていた。蜂起はその翌日である。
噂が火をつけたのは、燃えるものが積もっていたからだ。プラッシーの戦いから100年、会社は戦争と併合でインドの大半を手に入れていた。総督ダルフージーは、跡継ぎの実子がいない藩王国を取り潰す「失権の原則」でジャーンシーやナーグプルを併合し、1856年には失政を理由にアワド王国を併合した。ベンガル軍の兵にはアワド出身者が多く、故郷の王家が消され、地税の取り立てが変わるのを見ていた。海外への派兵を命じる新しい規則も、海を渡ればカーストを失うと考える兵には脅威だった。宣教師の活動や寡婦の再婚を認める法律も、宗教への介入と受け取られた。

反乱は北インドの広い範囲に広がった。カーンプルでは、失権の原則で年金を止められたナーナー・サーヒブが立ち、降伏したイギリス人の守備隊を川岸で襲った。7月には捕らえていた女性と子ども約200人を殺し、遺体を井戸に投げ込んだ。ラクナウではイギリス人の居留地が5か月近く包囲された。中部インドでは、夫を亡くして国を併合されたジャーンシーの王妃ラクシュミー・バーイーが自ら兵を率い、1858年6月にグワーリヤルで戦死した。
一方で、反乱はインド全体の蜂起にはならなかった。ベンガルの東部や南インド、ボンベイの大部分は動かず、パンジャーブのシク教徒の兵や、ネパールのグルカ兵はイギリス側で戦った。藩王の多くも様子を見るか、会社の側についた。反乱側には全体をまとめる指導者も計画もなく、皇帝は名目上の頭でしかなかった。

9月、イギリス軍はデリーを取り返した。皇帝はフマーユーン廟に逃れて降伏し、息子たちも捕らえられて、その2日後に射殺された。鎮圧の処置は苛烈だった。カーンプルの報復として村が焼かれ、裁判なしの絞首刑が続き、捕虜を大砲の砲口に縛りつけて撃つ処刑も行われた。反乱側と鎮圧側の死者の数ははっきりせず、インド人の犠牲は数十万にのぼったとする見方もあるが、確かな数は分かっていない。戦闘が終わったと宣言されたのは1859年7月である。
1858年8月、イギリス議会はインド統治法を定め、統治の権限を東インド会社から国王に移した。11月にはヴィクトリア女王の名で布告が出され、藩王国の併合をやめること、宗教に干渉しないことが約束された。会社は統治の役目を失い、1874年に正式に解散した。バハードゥル・シャー2世は裁判にかけられてラングーン(ヤンゴン)へ流され、1862年にその地で死んだ。第一次パーニーパットの戦いから330年あまり続いたムガル帝国の名は、ここで完全に消えた。

この出来事の呼び方は、立場で分かれる。イギリスでは長く「セポイの反乱(ミューティニー)」と呼ばれ、軍の規律の問題として扱われた。1909年、民族運動家のサーヴァルカルが「第一次インド独立戦争」と名づけ、以後インドではこの呼び方が広がった。兵の反乱にすぎなかったのか、民族の独立戦争の始まりだったのかは、いまも議論が続いている。