ソ連のアフガニスタン侵攻
概要
クリスマスイヴ、空挺部隊がカブールに降り、大統領アミンが宮殿で殺された。10年。ソ連兵1万5000人、アフガン人100万人が死んだ。アメリカとサウジとパキスタンがムジャヒディンに金と武器を送った。1989年2月15日、最後の戦車が橋を渡った。ソ連は2年後になかった。
場所
34.53°N 69.17°E · アフガニスタン
関わった人(1)
レオニード・ブレジネフAD1906年12月19日–AD1982年11月10日 · 決めた本文
アフガニスタンは、19世紀にはロシア帝国とイギリス領インドのあいだの緩衝地帯として、両国の争いの舞台になってきた。20世紀には王国として中立を保ち、冷戦のもとではソ連からもアメリカからも援助を受けていた。とりわけ隣のソ連の影響は強く、軍の将校の多くはソ連で教育を受けた。1973年、元首相のダーウードが王政を倒して共和国を作ったが、5年後の1978年4月、ソ連寄りの共産主義政党、アフガニスタン人民民主党の将校たちがクーデターを起こし、ダーウードを一家ごと殺した。アフガンの暦の月の名から、「サウル革命」と呼ばれる。
新しい政権は、タラキーを議長、アミンを副首相に据え、国を一気に作り替えようとした。地主の土地を取り上げて農民に分け、結婚のときに花嫁の家に払う婚資を制限し、女性にも読み書きを教えようとした。だが部族とイスラームの長老が治める農村で、この急な改革は激しい反発を招いた。政権は反対する者を容赦なく捕らえ、数千人とも数万人ともいわれる人々を処刑した。各地で反乱が起き、イスラームの戦士を名乗るムジャヒディンの武装集団が生まれた。1979年3月には西部の都市ヘラートで大きな蜂起が起き、駐留していたソ連の軍事顧問やその家族も殺された。政権はソ連に軍の派遣を求めたが、このときソ連の指導部は断っている。

党の内部も割れていた。1979年9月、アミンは権力争いでタラキーを追い落とし、翌月、ひそかに殺させた。タラキーを気に入っていたレオニード・ブレジネフは激怒した。ソ連の指導部は、残忍で予測のつかないアミンが国をまとめられず、反乱が広がってイスラームの勢力が国を取ることを恐れた。KGBの報告は、アメリカに留学したことのあるアミンがアメリカと通じている疑いまで伝えたが、証拠は無かった。12月12日、ブレジネフ、KGB議長アンドロポフ、国防相ウスチノフ、外相グロムイコの4人を中心とする少人数の会議が、軍を送ってアミンを取り除くことを決めた。ソ連の軍の首脳には、反対する者もいた。
1979年12月24日、クリスマス・イヴの夜、ソ連の空挺部隊がカブールの空港と北のバグラム空軍基地に降り立ちはじめた。地上の部隊は国境のアムダリヤ川を渡って南へ進んだ。12月27日、KGBの特殊部隊と、中央アジア出身の兵で作られた部隊が、カブール郊外の丘の上のタージベグ宮殿を攻撃した。作戦名は「嵐333」。アミンはその日の昼、KGBの工作員の料理人に食事に毒を盛られて倒れ、事情を知らないソ連の医師たちに手当てを受けていたとされる。その夜、宮殿に突入した部隊によって、アミンは殺された。ソ連は、亡命先のヨーロッパにいた党の別の派閥の指導者バブラク・カルマルを担ぎ出し、ソ連の国境の町から、カルマルがソ連に助けを求めたとする放送を流した。

ソ連は、短い期間で政権を立て直して軍を引き上げるつもりだった。だが送り込まれた第40軍は、やがて10万人を超える規模になり、そのまま10年間とどまることになる。1980年1月、国連総会は104対18で外国軍の撤退を求める決議を採択した。アメリカのカーター政権は穀物の輸出を止め、モスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけて、日本や西ドイツなど多くの国が応じた。デタントと呼ばれた米ソの緊張緩和は、ここで終わった。
ソ連軍が相手にしたのは、山と谷に散らばるムジャヒディンだった。彼らはパキスタンのペシャワルに本部を置く七つほどの党派に分かれ、互いに争いながら戦った。アメリカのCIAは、パキスタンの情報機関を通じて彼らに武器と資金を送った。初めは小規模だった援助は、ロナルド・レーガン政権のもとで年に数億ドルにふくれ上がり、サウジアラビアもほぼ同じ額を出した。アラブの国々からは、異教徒と戦う聖戦に加わろうとする義勇兵も集まった。そのなかに、サウジの富豪の息子ウサーマ・ビン・ラーディンがいた。北東部のパンジシール渓谷では、アフマド・シャー・マスードが何度ものソ連軍の攻勢を退け、「パンジシールの獅子」と呼ばれた。

戦争は、アフガニスタンの人々に計り知れない犠牲を強いた。ソ連軍と政府軍は、ゲリラを支える村々を爆撃し、畑と灌漑の水路を壊し、無数の地雷を撒いた。死者は100万人から200万人と推計され、500万人を超える人々がパキスタンとイランへ逃れて難民になった。国内で家を追われた人も数百万人にのぼる。
1985年にソ連の指導者になったゴルバチョフは、翌年、この戦争を「血を流す傷」と呼んだ。1986年には、アメリカが肩に担いで撃てる対空ミサイル、スティンガーをムジャヒディンに渡しはじめ、ソ連のヘリコプターや飛行機が次々に撃ち落とされた。この兵器が戦局をどこまで変えたかには議論があるが、ソ連の指導部はすでに撤退の道を探っていた。1988年4月、アフガニスタン、パキスタン、アメリカ、ソ連の間でジュネーヴ協定が結ばれ、ソ連は軍を引き上げることを約束した。

1989年2月15日、最後のソ連軍の部隊が、アムダリヤ川にかかる橋を渡ってソ連の町テルメズへ戻った。第40軍の司令官グロモフ将軍は最後に一人で橋を歩いて渡り、私の後ろにはソ連の兵士は一人も残っていない、と語った。公式の発表では、ソ連軍の死者はおよそ1万5000人だった。帰還した兵士たちは、心と体の傷を抱え、社会から冷たく扱われた。戦死者は亜鉛の棺に封じられて故郷へ送られた。作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、兵士と母親たちの声を集めた本『亜鉛の少年たち』を書いている。
ソ連が去ったあとも、戦争は終わらなかった。ソ連の援助で持ちこたえていたナジブッラーの政権は、ソ連そのものが消えると支えを失い、1992年に倒れた(ソ連の解体)。ムジャヒディンの党派どうしがカブールを奪い合う内戦になり、その混乱のなかから現れたタリバンが、1996年にカブールを取った。タリバンのもとに身を寄せたビン・ラーディンの組織は、2001年に9・11同時多発テロを起こし、今度はアメリカが軍を送り込んだ(アフガニスタン戦争)。20年後、アメリカ軍も撤退し、タリバンが再び国を握った(タリバンの復権)。アフガニスタンを帝国の墓場と呼ぶ言葉は、この10年の戦争のあとで、あらためて広く使われるようになった。ソ連が壊れていく始まりの一つをこの戦争に見る人は、いまも少なくない。