チャンドラグプタ
概要
インド亜大陸で初めて広域の帝国を作った。セレウコスと講和して象500頭を渡し、その象がイプソスの戦いを決める。
所属
マウリヤ朝関わったできごと(1)
マウリヤ朝の成立BC322年 · 建国本文
出自がはっきりしない。インド亜大陸で最初の広域の帝国を作った人物でありながら、生まれた年も、どんな家の生まれかも分かっていない。生年は紀元前340年頃とされるが、幅がある。
低い身分の出とする伝承と、クシャトリヤ(武士の身分)の一族とする伝承がある。後代のヒンドゥー教の文献には、ナンダ朝の王とムラーという身分の低い女性の子だとするものがある。仏教の伝承は、彼をシャカ族の流れをくむモーリヤという氏族のクシャトリヤとする。ジャイナ教の伝承では、孔雀を飼う人々の村の長の娘の子とされる。マウリヤという王朝の名は、このモーリヤ(孔雀)から来ているとも言われる。
アレクサンドロスに会ったという記述が、ギリシア側の史料にある。紀元前326年、アレクサンドロス3世がインダス川流域まで進んだとき(アレクサンドロスの東方遠征)、サンドロコットスと呼ばれる若者が王に会った。プルタルコスによれば、彼はのちに、アレクサンドロスはガンジス川流域をたやすく手に入れられただろう、当時の王は卑しい生まれで民に憎まれていたから、と語ったという。ローマの歴史家ユスティヌスは、彼がアレクサンドロスを怒らせて命を狙われ、逃げたと書いている。

宰相カウティリヤ(チャーナキヤ)に見出された、という物語が伝わる。ナンダ朝の王に侮辱されたバラモンのチャーナキヤが復讐を誓い、才ある少年を見つけて育て、ともに王朝を倒したという筋で、のちの劇や伝説で大きくふくらんだ。統治と外交、戦争、密偵の使い方を説いた書物『実利論』はカウティリヤの著作とされるが、いま伝わる形にまとまったのはずっと後の時代だとする研究者が多い。
当時、ガンジス川中流の大国マガダを治めていたナンダ朝は、巨大な軍を持ちながら、重い税で民の恨みを買っていたと伝えられる。チャンドラグプタは、アレクサンドロスの死後に北西インドで力を失ったギリシア人の守備隊を追い払い、さらにナンダ朝を倒して、都パータリプトラを押さえた。紀元前322年頃のことで、どちらが先だったかについては説が分かれる。ナンダ朝を倒し、インド亜大陸初の広域帝国を作った(マウリヤ朝の成立)。
アレクサンドロスの帝国の東半分を継いだセレウコス1世は、インドの領土を取り戻そうとインダス川を越えてきた。戦いの経過は伝わっていないが、紀元前305年頃に講和が結ばれた。セレウコスは、いまのアフガニスタン南部のアラコシアなど、インダス川の西の地方を譲った。両家の間には婚姻の取り決めもあったとされるが、詳しいことは分からない。
その代わりに、チャンドラグプタは象500頭を渡している。ギリシアの地理学者ストラボンが伝える数である。
その象が、紀元前301年のイプソスの戦いで、アンティゴノスを破る決め手になった。アレクサンドロスの後継者の座を争う戦いで、セレウコスは連れてきたインドの戦象を使って、アンティゴノスの息子デメトリオスの騎兵が戻ってくる道を塞ぎ、アンティゴノスを孤立させた。老将アンティゴノスは戦死した。インドの象が、ギリシア人の帝国の行方を決めたことになる。

講和の後、セレウコスは大使メガステネスをパータリプトラの宮廷に送った。メガステネスが書いた『インド誌』は失われたが、後の著作家の引用で一部が残っている。それによれば都はガンジス川に沿って長く延び、木の城壁に570の塔と64の門があった。王は暗殺を恐れて同じ寝室で二晩続けて眠らなかった、という記述もある。社会が七つの階層に分かれていたとも書かれていて、当時のインドを外から見た貴重な記録になっている。
帝国は、西はアフガニスタンから東はベンガル湾の近くまで、北インドの大部分に及んだ。役人と密偵の網で各地を見張り、税を集めて大軍を養ったとされる。

晩年、ジャイナ教に帰依した。ジャイナ教の伝承によれば、北インドに12年続く飢饉が来ると予言した師バドラバーフに従い、王位を息子のビンドゥサーラに譲って南インドへ行った。いまのカルナータカ州のシュラヴァナベラゴラの丘で、ジャイナ教の作法に従って食を断ち、静かに死んだと伝わる。紀元前297年頃とされる。丘にはいまも、彼にちなむと伝えられる寺院や洞窟があり、ジャイナ教徒の巡礼地になっている。
インドの古い文献には、彼が生きた時代を確かに示すものがほとんど無い。年代を決める手がかりになっているのは、ギリシアの歴史家たちの記述である。インドの古代史の中で、年代をほぼ確定できる最も早い人物の一人と言われるのはそのためである。

息子ビンドゥサーラは南へ領土を広げ、孫がアショーカになる。アショーカ王の時代に、マウリヤ朝はインド亜大陸の大部分を覆う帝国となった。