スエズ危機

概要
エジプトが運河を国有化し、英仏が武力介入して失敗した。旧宗主国の時代が終わったと誰の目にも見える。
場所
30.59°N 32.27°E · エジプト
関わった人(1)
ガマール・アブドゥル=ナセルAD1918年1月15日–AD1970年9月28日 · 国有化を宣言本文
スエズ運河の開通から90年近く、運河を動かしていたのはエジプトではなかった。運河会社の株の多くはイギリスとフランスが持ち、通行料はパリの本社へ流れた。運河の地帯には、エジプトが独立した後もイギリス軍の大きな基地が置かれていた。1952年に王政を倒した軍人たちの中から指導者となったガマール・アブドゥル=ナセルにとって、運河は国の中に残る外国そのものだった。1954年の協定でイギリス軍の撤退が決まり、最後の部隊は1956年6月に去った。
ナセルが国づくりの柱に据えたのが、ナイル川の上流に巨大なダムを築く計画である。洪水を抑え、農地を広げ、電気を起こす。資金はアメリカとイギリス、世界銀行が出すことになっていた。ところがナセルは1955年、西側が渋った武器をチェコスロヴァキアを通じてソ連圏から買い、翌年には共産党の中国を承認した。冷戦のただ中で東西のどちらにも付かないという姿勢は、アメリカの目には挑発と映った。1956年7月19日、アメリカの国務長官ダレスは資金の提供を取りやめると通告し、イギリスもこれに続いた。

7日後の7月26日、ナセルはアレクサンドリアの広場での演説で、スエズ運河会社の国有化を宣言した。運河の収入でダムを造る、と。演説の途中で、あらかじめ決めておいた合図の言葉が読み上げられ、技術者たちが運河会社の事務所を押さえた。群衆は熱狂した。
イギリスの首相イーデンは、ナセルを1930年代のムッソリーニになぞらえた。独裁者に譲れば、さらに大きな要求を招く。イギリスにとって運河は、中東の石油とアジアへ向かう道の喉元だった。フランスはナセルがアルジェリアの独立戦争を支えていると見て、彼を倒したがっていた。そこへ、エジプトとの国境で衝突を繰り返していたイスラエルの建国以来のイスラエルが加わる。

10月、三国の代表はパリ郊外のセーヴルでひそかに会い、筋書きを決めた。まずイスラエルがシナイ半島に攻め込む。英仏は双方に戦闘をやめて運河から離れよと最後通牒を突きつけ、エジプトが拒めば、運河を守るという名目で出兵する。10月29日、イスラエル軍がシナイに入り、31日から英仏の空軍がエジプトの飛行場を爆撃した。11月5日と6日には、英仏の部隊がポートサイドに降り立った。ナセルは運河に船を沈めて航路をふさいだ。
戦場では、英仏とイスラエルは勝っていた。負けたのは、戦場の外である。アメリカの大統領アイゼンハワーは、同盟国が自分に知らせずに戦争を始めたことに激怒した。ちょうど同じ時期、ソ連はハンガリー動乱を戦車で押しつぶしており、西側が中東で同じことをしていては、ソ連を非難することもできない。ソ連の首相ブルガーニンは、英仏にロケットの使用をほのめかす書簡を送った。国連総会は即時の停戦と撤退を求める決議を大差で可決した。

決定打は金だった。戦争が始まるとポンドが売られ、イギリスの外貨準備は急速に減った。アメリカは、国際通貨基金からイギリスへの融資を、停戦するまで認めないという態度を示した。11月6日、イギリスは停戦を受け入れ、フランスもそれに従った。国連は初めての本格的な平和維持軍を組織して現地に送り、英仏軍は12月までに引き揚げた。イスラエル軍がシナイから退いたのは翌1957年3月である。運河は沈船の撤去を経て、1957年4月に再び開いた。
翌1957年1月、イーデンは健康の悪化を理由に首相を辞めた。イギリスはこれ以後、アメリカの同意なしに大きな軍事行動はとれないことを思い知らされた。フランスは逆に、アメリカに頼らない道を求め、独自の核兵器の開発を急いだ。中東では、英仏が抜けた空白をアメリカとソ連が埋めていく。

ナセルは軍事的に負けながら、政治的に勝った。二つの旧宗主国とイスラエルを相手に一歩も引かなかった指導者として、アラブ世界の英雄になった。アスワン・ハイ・ダムはソ連の援助で建設が進められ、1970年に完成する。一方、エジプトとイスラエルの対立は解けず、11年後の第三次中東戦争へとつながっていった。