クルスス・プブリクス
概要
アウグストゥスが整えた、帝国の公用の逓送制度である。街道沿いに一日行程ごとに宿駅を置き、馬と車と宿を用意した。使者は乗り継いで走り、一日に約80キロ、急使は数倍を進んだ。使えるのは通行証を持つ官人だけで、私信は運ばない。維持の費用は沿道の都市と住民が負う。速さは道の質と宿駅の密度で決まる、という原理をそのまま体現した仕組みで、以後の帝国はどこもこれに似たものを持った。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
アウグストゥスBC63年9月23日–14年8月19日 · 整えた本文
ローマ帝国は広かった。ローマからアレクサンドリアまでは直線でおよそ1800キロ、ブリタンニアの北の境までは2500キロ近くある。皇帝の命令も、属州からの報告も、届かなければ意味が無い。ところが共和政の時代のローマには、国が運営する逓送の仕組みが無かった。属州の総督たちは自分の奴隷や解放奴隷を使者として走らせ、私人の手紙は旅人に託すしかなかった。キケロの書簡集には、手紙が届くまでの遅さや、途中で失われる心配がたびたび書かれている。
内乱を終わらせて帝国の主になったアウグストゥスは、この仕組みを整えた。歴史家スエトニウスは次のように伝えている。アウグストゥスは初め、軍道に沿って若者を一定の間隔で立たせ、便りを次々に手渡しさせた。しかしのちにそれをやめ、車を置くことにした。同じ使者が最後まで行けば、着いた先で必要なことを直接問いただせるからである。これは鋭い判断だった。手渡しの方式は速いが、運べるのは書かれたものだけである。一人が最後まで行けば、その人に問い返すことができる。

仕組みの土台は、すでにあった道である。ローマの街道網は、最盛期には舗装された幹線だけで8万キロに及んだとされる(その最初期のものがアッピア街道である)。軍隊を速く動かすために作られた道の上に、逓送が載った。道沿いには、馬を替えるための中継所が十数キロごとに、泊まるための宿駅がおよそ一日の行程ごとに置かれた。宿駅には寝床と食事があり、獣医や鍛冶屋、ときには浴場まで備わっていた。国が営む宿場の網である。その遺構はいまも帝国の各地に残っている。
この仕組みを使えるのは、皇帝や総督が発行する通行証を持つ者だけだった。管理は厳しかった。2世紀の初め、小アジアの属州総督だった小プリニウスは、トラヤヌスに宛てた手紙で、祖父を亡くして急いで帰らねばならなくなった妻に通行証を使わせたことを報告し、許しを求めている。トラヤヌスは、それでよいと答えた。属州の総督が、通行証一枚のことで皇帝に伺いを立てていたのである。
この制度には暗い面もあった。費用を負担したのは、沿道の都市と住民だった。馬を出せ、車を出せ、宿と食事を出せ、と求められ、支払いは無いか、あってもわずかだった。属州からの陳情には、この負担への苦情が繰り返し現れる。皇帝たちは乱用を禁じる命令を何度も出したが、禁じ続けたということは、止まなかったということでもある。通行証の偽造や、資格の無い者の利用も絶えなかった。1世紀末のネルウァ帝はイタリアの住民の負担を免じたことを硬貨に刻んで誇り、2世紀のハドリアヌス帝は費用の一部を国庫に移したと伝えられる。
速さはどれほどだったのか。普通の使者は、一日に80キロ前後を進んだと見積もられている。急ぎの知らせはもっと速い。紀元69年の初め、ゲルマニアの軍団が反乱を起こしたという知らせは、ライン川沿いのマインツからローマまで、約1200キロを9日ほどで届いたとされる。一日あたり130キロ以上である。極端な例としては、のちの皇帝ティベリウスが、病に倒れた弟ドルススのもとへ駆けつけるため、馬を乗り継いで一昼夜に約300キロを走ったという話が伝わっている。馬を替え続ければ、乗り手の体が持つかぎり、速さは伸びる。

海は別の世界だった。ローマからアレクサンドリアまで、順風なら船で10日ほどで着くが、逆風なら2か月かかることもある。そして冬の地中海は、11月から3月ごろまで航海がほぼ止まる。その間、帝国の東と西の連絡は陸路に頼るしかなく、極端に遅くなった。
この仕組みは公用のためのもので、私人の手紙は運ばなかった。一般の人々は、商人や兵士や旅人、知り合いの奴隷に手紙を託した。そちらへ行く人が見つかったら、という頼み方である。だから手紙は何か月も遅れ、何通かがまとめて届いた。
3世紀末から4世紀にかけて、ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスの時代に、制度は二つに分けられた。馬やラバで人と便りを速く運ぶ部門と、牛車で軍の物資などの重い荷を運ぶ部門である。しだいに便りより荷物の輸送が主になり、沿道の負担はさらに重くなった。東ローマ帝国ではこの仕組みが長く続いたが、7世紀の危機の中で大きく縮んだ。その後を受け継いだのが、イスラームの諸王朝の駅逓「バリード」である。ウマイヤ朝やアッバース朝では、駅逓の長官が同時に諜報の長でもあった。便りを運ぶ者は、道中で見たものも報告したからである。
街道と宿駅と通行証、そして中央への報告。この組み合わせは、ローマより前にも後にも、世界のあちこちで繰り返し現れる。ローマに先立つペルシアの駅伝、唐の駅伝、モンゴルのモンゴルの站赤、日本の五街道と宿場と伝馬の制、インカの飛脚チャスキ。互いにまねたものもあれば、独立に生まれたものもある。広い土地を一つの中心から治めようとする国は、どこでも同じものを必要とした。速さは道の質と宿駅の密度で決まる。その原理を、ローマの仕組みは見事に形にしていた。