第一船団のボタニー湾到着
概要
アメリカを失って、囚人を送る先がなくなったイギリスが、クックの報告した土地へ11隻を送った。囚人778人、海兵と家族、8か月の航海。ボタニー湾は水が悪く、北のポート・ジャクソン(シドニー湾)へ移って、1月26日に旗を立てた。「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日」。80年で16万人の囚人が送られ、天然痘と土地の収奪で先住民の人口は激減した。
場所
-33.87°N 151.21°E · オーストラリア・ニューサウスウェールズ州
関わった人(1)
アーサー・フィリップAD1738年10月11日–AD1814年8月31日 · 率いた本文
18世紀のイギリスでは、盗みのような罪でも重く罰せられた。死刑にあたる罪は世紀の末には200を超えるほどになり、その代わりの刑として広く使われたのが流刑である。1718年からは、罪人をアメリカの植民地へ送り、そこで年季の労働者として働かせる仕組みが整えられ、半世紀あまりで5万人ほどが大西洋を渡った。ところが1776年、アメリカの植民地が独立を宣言すると(アメリカ独立宣言)、送り先が無くなった。国内の監獄はあふれ、テムズ川などに浮かべた廃船に罪人を詰め込んでしのいだが、それも限界だった。
目を付けられたのが、1770年にジェームズ・クックが探検した大陸の東岸である(クックの太平洋航海)。クックはこの地をニューサウスウェールズと名づけ、上陸した湾を、見たことのない植物が多いことからボタニー(植物学)湾と呼んだ。同行した博物学者ジョゼフ・バンクスは、のちに議会の委員会で、ここは罪人を送る植民地に向いていると証言した。1786年、政府はボタニー湾への植民を決める。遠すぎて逃げ帰れない土地であること、太平洋での足場や船材の供給地になりうることも、計算に入っていたと考えられている。

1787年5月13日、11隻の船団がイングランド南部のポーツマスを出港した。海軍の艦シリウスとサプライ、囚人を運ぶ船6隻、補給船3隻である。率いたのは、のちに初代総督となる海軍大佐アーサー・フィリップ。乗っていたのは、男女合わせて750人から780人ほどの囚人(記録によって数が違う)と、その監視にあたる海兵隊員とその家族、役人などで、総勢は1400人前後だった。囚人の多くは窃盗の罪で、7年か14年の流刑を言い渡されていた。最年少は9歳ほどの少年、最年長は80歳を超える女性だったと伝えられる。
航海は8か月余り、2万キロを超えた。船団はテネリフェ、リオ・デ・ジャネイロ、ケープタウンに寄って水や食料、植民地で育てる家畜や種を積み込んだ。フィリップは新鮮な食べ物を手に入れることと船内の清潔に気を配り、途中で死んだのは50人ほどにとどまった。当時の長い航海としては驚くほど少ない。3年後の第二船団では、請け負った業者が囚人を虐げ、1000人ほどのうち4分の1以上が航海中に死んでいる。

1788年1月18日から20日にかけて、船団はボタニー湾に着いた。だが、クックの報告とは違い、湾は浅く外海の風を受け、真水も乏しく、土地もやせていた。フィリップは小舟で北へ向かい、少し先の入り江ポート・ジャクソンに、世界でも最も見事な港を見つける。千隻の船が安全に停泊できる、と彼は書いた。船団はそちらへ移り、1788年1月26日、入り江の奥の小さな湾に上陸してイギリスの旗を立て、国王の健康を祝して乾杯した。湾は、植民を推し進めた内務大臣シドニー卿にちなんでシドニー・コーブと名づけられた。その数日前、フランスの探検家ラ・ペルーズの二隻がボタニー湾に現れていた。ラ・ペルーズはしばらく滞在して去り、その後消息を絶っている。2月7日、植民地の設立が正式に宣言された。
最初の数年は、飢えとの戦いだった。土はやせ、持ってきた種はうまく育たず、農業に通じた者もほとんどいなかった。家畜は逃げ、補給の船は来ない。食料の配給は何度も減らされた。1790年6月、ようやく第二船団が到着したが、運んできたのは食料とともに、病み衰えた大勢の囚人だった。植民地が食料をある程度自分で賄えるようになるのは、1790年代に入ってからである。

この土地には、少なくとも数万年前から人が住んでいた(オーストラリア先住民の岩絵)。シドニーの周辺に暮らしていたのは、エオラと総称される人々である。フィリップは、先住民を傷つけることを禁じ、友好を保つよう命じた。1790年に自分が槍で肩を刺されたときも、すぐには報復を許さなかった。先住民と植民者の間を取り持とうと、ベネロンという男を捕らえて言葉と習慣を学び合い、1792年にはイギリスへ連れて行っている。だが、同じ1790年の暮れには、部下が殺された報復として先住民への討伐隊を出すよう命じてもいる。何より大きかったのは病だった。1789年の春、シドニー周辺で天然痘が広がり、エオラの人々の多くが死んだ。病がどこから来たのかについては、船団が持ち込んだとする説と、北の海から来た別の経路を考える説があり、決着していない。土地は柵で囲まれ、狩りや漁の場は失われていった。
囚人の流刑は、その後80年にわたって続いた。東部の植民地への流刑は1850年代の初めまでに終わり、西オーストラリアへの最後の船は1868年に着いた。送られた囚人は合わせて16万人を超える。刑期を終えた者や自由な移民が加わり、羊毛と、のちには金が、植民地を豊かにした。

1月26日は、いま「オーストラリア・デー」として祝われる国の祝日である。だが先住民にとって、それは土地を奪われ始めた日でもある。1938年、上陸150年の祝典の日に、先住民の活動家たちはこの日を「哀悼の日」として抗議の集会を開いた。以来「侵略の日」「生き延びた日」とも呼ばれ、祝日の日付を変えるべきかという議論が続いている(アボリジナル・テント大使館)。シドニー・コーブの辺りは、いまオペラハウスと港の橋を望む町の中心になっている(シドニー・オペラハウス)。