← 地図で見る
Event / できごと

第一船団のボタニー湾到着

First Fleet arrives
AD1788年1月26日
重要度 5

概要

アメリカを失って、囚人を送る先がなくなったイギリスが、クックの報告した土地へ11隻を送った。囚人778人、海兵と家族、8か月の航海。ボタニー湾は水が悪く、北のポート・ジャクソン(シドニー湾)へ移って、1月26日に旗を立てた。「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日」。80年で16万人の囚人が送られ、天然痘と土地の収奪で先住民の人口は激減した。

場所

シドニー
-33.87°N 151.21°E · オーストラリア・ニューサウスウェールズ州

関わった人(1)

アーサー・フィリップAD1738年10月11日–AD1814年8月31日 · 率いた

本文

1770年、キャプテン・クックがニューホランドの東岸に上陸して、「ニューサウスウェールズ」と名づけ、ボタニー湾を「良い港、良い水、牧草地」と報告した。同行の植物学者バンクスが、後に「囚人の植民地に適している」と議会で証言した。

イギリスは、罪人をアメリカへ送っていた(1718年から、年に約1000人。契約労働者として売られた)。1776年の独立で、送れなくなった。監獄が溢れ、テムズ川に廃船(ハルク)を浮かべて詰め込んだ。1786年、政府はボタニー湾を選んだ。

第一船団。1787年5月13日、ポーツマス。11隻。海軍の護衛艦シリウスとサプライ、囚人船6、補給船3。総督兼司令官アーサー・フィリップ(48歳、海軍大佐)。囚人778人(男586、女192。ほとんどが窃盗。7年か14年の流刑。9歳の子供と82歳の老女がいた)、海兵と家族と役人で、合わせて約1400人。

航海。252日、2万4000キロ。テネリフェ、リオ・デ・ジャネイロ、ケープタウンで補給。フィリップは、野菜と、新鮮な水と、船内の清潔と、囚人を甲板に出すことにこだわった。死者は48人(当時の航海としては非常に少ない。第二船団(1790年)は1000人中267人が死んだ)。

1788年1月18〜20日、ボタニー湾。水が悪く、土が痩せていて、風が入る。フィリップは3隻の小舟で北へ12キロ、ポート・ジャクソンへ。「千隻の船が安全に泊まれる、世界で最高の港」。シドニー湾(内相シドニー子爵から)。

1月26日、湾に入り、旗を立て、乾杯した。1月24日には、フランスのラ・ペルーズの2隻がボタニー湾に現れていた(数日違いだった。ラ・ペルーズは6週間滞在して、去って、消息を絶った)。2月7日、正式に植民地を宣言。

最初の3年は飢えかけた。土は痩せ、種は芽を出さず、道具は壊れ、農業を知る者がいなかった。1790年6月、第二船団が食糧と、病んだ囚人を運んで来た。1792年、ようやく自給に近づいた。

先住民。エオラ族。フィリップは友好を命じ、「彼らを傷つけた者は罰する」と布告した。1790年、彼自身が槍で肩を刺されたときも、報復を禁じた。ベネロン(捕らえて、言葉と習慣を教え合った男)を1792年にイギリスへ連れて行った(3年後、帰って、どちらの世界にも居場所がなく、1813年に死んだ)。しかし、1789年4月、天然痘が広がって、シドニー周辺のエオラの人口の半分以上が死んだ(船から来たと考えられている)。土地は柵で囲まれた。

80年で16万人がオーストラリアへ流された(東部は1840年まで、西部は1868年まで)。

1月26日は「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日(インヴェイジョン・デー)」「哀悼の日」。1938年から抗議が続き、いまも日付を変える議論がある。

同じ時代のできごと

クックの太平洋航海1768年ワットの蒸気機関AD1769年西山の乱1771年田沼時代AD1772年(安永元年)ポーランド分割1772年清の文字の獄AD1772年プガチョフの乱AD1773年『解体新書』AD1774年(安永3年)