できごと

マケドニア朝の始まり

Beginning of the Macedonian dynasty
AD867年9月24日
重要度 5
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スラヴ系の諸部族ハザールペルミ系の人びとサーミ東ローマ帝国ヒンドゥーの諸国アヴァールアグラブ朝マクリアバシキール後ウマイヤ朝ノルマン人イドリース朝Finnsヴォルガ・ブルガールアルワガーナ帝国カネムVepsMagyarsアクスム王国第一次ブルガリア帝国Kareliansバルトの諸部族MordviniansRus' Khaganateガーナデーン人Swedes and GothsIrlandaMercia大モラヴィア国MariVallabhiアストゥリアス王国EstsCzechsLombard duchiesAD867年9月24日コンスタンティノープル
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD867年9月24日の版図を描いています(41勢力)。

概要

アルメニア系の農民の子が、馬の調教で皇帝ミカエル3世に気に入られ、共同皇帝になり、酔った皇帝を寝室で殺した。バシレイオス1世。189年の王朝。法典、征服、文芸復興。ビザンツで最も長く、最も強い時代を、殺人で始めた。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

関わった人(1)

バシレイオス1世AD811年–AD886年8月29日 · 殺して即位

本文

867年9月24日の夜、コンスタンティノープルの聖ママス宮殿で、皇帝ミカエル3世が殺された。手を下したのは、皇帝が自ら共同皇帝に引き上げた寵臣バシレイオスと、その仲間たちである。バシレイオス1世として即位したこの男から始まる王朝は「マケドニア朝」と呼ばれ、1056年まで189年続いた。ビザンツ帝国の歴史で最も長く、最も力のあった王朝は、主君殺しで幕を開けた。

バシレイオスの生まれは、名門とはほど遠かった。「マケドニア」は今のギリシアの北のマケドニアではなく、アドリアノープル(今のトルコのエディルネ)の周辺を指す帝国の軍管区の名で、彼の家はそこに住むアルメニア系の農民だったとされる。生年ははっきりせず、811年ごろとも、もっと後とも言われる。813年、第一次ブルガリア帝国の君主クルムがアドリアノープルを落とし、住民をドナウ川の北へ連れ去ったとき、幼いバシレイオスの一家もその中にいたと伝えられる。

バシレイオス2世
バシレイオス2世Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

彼の若いころの話は、ほとんどが後の王朝の側で書かれた伝記に頼っている。孫のコンスタンティノス7世がまとめさせたこの伝記によれば、成長したバシレイオスは無一文で都に出て、教会の門の前で夜を明かし、やがて有力者テオフィリツェスの馬丁として仕えた。並外れた力持ちで、宴の席でブルガリア人の力士を投げ飛ばし、また皇帝の手に負えない荒馬を見事に乗りこなして、ミカエル3世の目にとまったという。王朝の始祖を飾るための話も混じっていると考えるべきだが、彼が腕力と馬の扱いで宮廷に入り込んだことは、敵の側の記録とも食い違わない。

ミカエル3世は後世「酔っ払い」のあだ名をつけられた皇帝だが、その悪評にもマケドニア朝の史家の筆が加わっている。政治の実務を握っていたのは叔父のバルダスで、学問の再興に力を入れ、総主教フォティオスとともに文化の上でも大きな足跡を残した。バシレイオスは皇帝の寝室を預かる役にまで出世すると、このバルダスを除きにかかった。866年4月、遠征の陣中で、皇帝の目の前でバルダスを斬り殺した。翌5月、ミカエルはバシレイオスを共同皇帝に据えた。

バシレイオス1世の肖像
バシレイオス1世Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · CC0

二人の関係はねじれていた。ミカエルは自分の愛人エウドキア・インゲリナをバシレイオスの妻にさせ、その後も関係を続けていたとされる。そのため、エウドキアが産んだ後のレオン6世が、バシレイオスの子なのかミカエルの子なのかは、当時から疑われてきた。やがてミカエルが別の寵臣を取り立てる気配を見せると、バシレイオスは先手を打った。867年9月24日、酒に酔って寝ていたミカエルの寝室に、バシレイオスの仲間が押し入った。寝室の鍵はあらかじめ壊されていたと伝えられる。ミカエルは斬り殺され、バシレイオスが単独の皇帝となった。

即位したバシレイオスは、まず前の政権の色を消しにかかった。ミカエルとバルダスが重んじたフォティオスを総主教の座から退け、前任のイグナティオスを戻して、ローマ教皇との関係を修復した。ただし約10年後、イグナティオスが死ぬとフォティオスを再び総主教に迎え、息子たちの教育まで任せている。農民上がりの皇帝は、法律の整理に熱心だった。ローマ法を当時の言葉で整理し直す仕事を始め、それは息子のレオン6世のもとで、全60巻の大法典『バシリカ』として完成する。

この王朝のもとで、帝国は長い守りの時代を抜け出した。7世紀以来、イスラーム勢力やブルガリア人に領土を削られ続けてきたが、10世紀になると攻勢に転じる。961年には将軍ニケフォロス・フォカスがアラブ人からクレタ島を取り返し(クレタの奪回)、彼が皇帝になった後の960年代にはキプロス島とシリアのアンティオキアも帝国の手に戻った。マケドニア家の皇帝が幼いあいだ、こうした有能な将軍が共同皇帝として国を支えたのも、この時代の特徴である。

クレタの奪回に関わる図版:Byzantines under Nikephoros Phokas besiege Chandax
クレタの奪回Wikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

文化の面では、のちに「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる古典の学問の復興が花開いた。フォティオスは数百冊の書物の内容を要約した『ビブリオテカ』を著し、今は失われた古代の書物の多くがこれによって知られる。学問好きのコンスタンティノス7世は、宮廷の儀式や帝国の統治について詳しい書物をまとめさせた。帝国の宣教も遠くへ及び、10世紀の末にはキエフ・ルーシがビザンツからキリスト教を受け入れた(キエフ・ルーシの改宗)。キエフの大公ウラジーミル1世が妻に迎えたのは、マケドニア朝の皇女アンナだった。

王朝の頂点はバシレイオス2世の時代である。彼は長い戦いの末に1018年に第一次ブルガリア帝国を併合し、帝国の版図をドナウ川まで押し広げた。だが彼は結婚せず子を残さなかった。その後は弟のコンスタンティノス8世、その娘のゾエとテオドラの姉妹が、夫や養子を次々に皇帝に立てながら王朝の血をつないだ。1056年にテオドラが死ぬと、マケドニア家の血統は絶えた。それから帝国は内紛に陥り、1071年にはセルジューク朝に東方で大敗して、アナトリアの大半を失っていく。

ビザンツ帝国では、帝位は必ずしも血筋で受け継がれるものではなかった。ユスティニアヌス1世は農民出身の皇帝ユスティヌスの甥であり、ヘラクレイオスは反乱によって帝位に就いた。皇帝を殺した者が新しい皇帝になることは、珍しくなかったのである。その中でマケドニア朝が特別なのは、殺人で始まりながら、人びとがこの家に忠誠を寄せるようになり、「緋色の産室に生まれた」皇子こそ正統な皇帝だという考えが根づいていったことだ。王朝の終わりに、年老いたゾエやテオドラが民衆に担がれて玉座に戻ったのは、その忠誠の表れだった。馬丁から皇帝になった男は、自らの手で、血筋の重みを帝国に教えた。

同じ時代のできごと

ウシュマルとプウク様式AD8〜10世紀ラグナル・ロズブローク(伝承)AD850年頃(伝承)張議潮の帰義軍AD848年プランバナンの造営AD856年頃藤原良房の摂政AD858年ルーシの成立AD862年スラヴ語への伝道AD863年ブルガリアの改宗AD864年
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