ンジンガのポルトガル抵抗
概要
40年にわたって奴隷貿易に抗った。外交と軍事を使い分け、オランダとも組んでポルトガルを牽制する。
場所
-9.50°N 15.00°E · アンゴラ内陸部
関わった人(1)
ンジンガ女王AD1583年–AD1663年12月17日 · 当人本文
1575年、ポルトガルはンドンゴ王国の海岸にルアンダを築き(ルアンダの建設と奴隷の積出)、内陸へ兵を進めた。目当ては、ブラジルの砂糖農園に送る奴隷だった。ポルトガルは、内陸から現れた戦士集団インバンガラを雇ってンドンゴの村々を襲わせ、戦争で捕らえた人々を海岸へ送った。17世紀のはじめ、ンドンゴの王たちは国土の西半分を失い、多くの民がさらわれていた。
ンジンガ女王は1580年代、ンドンゴの王の娘として生まれた。1617年に兄のンゴラ・ンバンディが王位に就いたが、ポルトガルとの戦いに敗れ続けた。1621年から翌年にかけて、兄は妹のンジンガを和平の使者としてルアンダへ送った。

この交渉の場で起きたとされるのが、椅子の逸話である。ポルトガル総督は自分だけ椅子に座り、ンジンガには床に敷物を用意させた。ンジンガは従者の一人に四つん這いになるよう命じ、その背に腰を下ろして、総督と同じ高さで交渉したという。この話は、後にイタリア人の宣教師が書き残した記録などに見えるもので、脚色が含まれている可能性もある。ただ、総督と対等の立場で臨もうとした彼女の姿勢をよく伝えるものとして、語り継がれてきた。
交渉の中で、ンジンガはルアンダで洗礼を受け、総督を名付け親としてアナ・デ・ソウザというキリスト教の名を得た。ポルトガルは、ンドンゴの国内に築いた砦を引き払い、捕らえた人々を返すと約束した。だが約束は守られなかった。

1624年、兄が死んだ。毒による死だったとも言われ、ンジンガが関わったとする噂もあったが、確かなことは分からない。ンジンガは自ら国を治めはじめた。ポルトガル側は、女性が王になることは認められないと主張し、ンドンゴの別の有力者を王に立てて、ンジンガに対抗させた。ンジンガは都を追われ、1620年代の後半には森や島に逃れながら戦い続けることになる。
ここからの彼女の戦い方は、使えるものはすべて使うというものだった。まず、かつてンドンゴを荒らしたインバンガラと手を結び、その指導者と婚姻関係を結んで、自らも彼らの戦士の掟を受け入れた。次いで、東隣のマタンバの国を征服し、そこを新たな拠点とした。ポルトガルの農園や支配地から逃げてきた奴隷を受け入れて兵とし、ポルトガル側についていた首長たちに寝返りを呼びかけた。男の服を着て戦場に立ち、側近の男たちに女の服を着せたという話も伝わるが、これも宣教師の記録によるもので、解釈には慎重さが要る。

1641年、オランダがルアンダを占領すると、ンジンガはオランダと同盟を結んだ。オランダにとってもポルトガルの奴隷貿易を奪うことが目当てだったが、ンジンガにとっては、ヨーロッパの勢力どうしの争いを利用する好機だった。連合軍は1647年にポルトガル軍を破ったが、翌年、ブラジルから来たポルトガルの艦隊がルアンダを取り戻し、オランダは去った。ンジンガは再び単独で戦うことになった。
ンジンガ自身も、奴隷の取引と無縁ではなかった。戦争で捕らえた人々をオランダやポルトガルに売り、その代わりに鉄砲や布を手に入れて、戦いの元手にした。彼女が戦った相手は奴隷貿易の体制そのものだったが、彼女はその体制の中で生き延び、国を守らなければならなかった。今日の価値観で、英雄か加害者かに単純に分けられる人物ではない。
晩年、ンジンガはポルトガルと和を結んだ。1656年の和約で、ポルトガルに捕らわれていた妹が身代金と引き換えに返され、マタンバとンドンゴの一部はンジンガの国として認められた。彼女は再びキリスト教を受け入れ、宣教師を迎え、ローマ教皇に手紙を送った。1663年12月、80歳前後で没した。
ンジンガの死後、国は妹が継いだ。マタンバはその後も長くポルトガルから独立を保ち、奴隷の取引の仲介で栄えた。ポルトガルがアンゴラの内陸を実際に支配するのは、19世紀の末から20世紀のはじめになってからである。
20世紀、ポルトガルからの独立を求めて戦ったアンゴラの人々は、ンジンガを植民地支配に抵抗した先駆けとして称えた。1975年に独立を果たすと(ポルトガル領の独立)、首都ルアンダには彼女の像が建てられ、アンゴラの国民的な英雄となった。外交と戦争、信仰と同盟を使い分け、40年近くにわたって大国に屈しなかった女王の姿は、大西洋奴隷貿易の時代のアフリカが、ただ奪われるだけの存在ではなかったことを示している。