できごと

ネルチンスク条約

Treaty of Nerchinsk
AD1689年9月6日
重要度 5
ネルチンスク条約に関わる図版:Латинскии Текст Нерчинского Договорa (авпр, Փ. 163, Оп. 1, Д. 22, Ал. 6 Об.) - 1
Латинскии Текст Нерчинского Договорa (авпр, Փ. 163, Оп. 1, Д. 22, Ал. 6 Об.) - 1 Wikimedia Commons Unknown (goverments of China/Russia) · Public domain

概要

ロシアと清が、アムール川の流域で衝突して、初めて対等な条約を結んだ。イエズス会士のペレイラとジェルビヨンがラテン語で仲介した。ロシアはアムールを諦め、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を境に。代わりに北京での交易が認められた。中国が西洋の国と結んだ最初の条約で、170年、破られなかった。1727年のキャフタ条約で、モンゴル方面の国境と、恒常的な交易の場が決まった。

場所

ネルチンスク
51.97°N 116.55°E · ロシア・ザバイカリエ

本文

16世紀の終わりから、ロシアのコサックはウラル山脈を越えて東へ進んだ。目当ては毛皮である。クロテンの毛皮はヨーロッパで高く売れ、モスクワの国庫を潤した。彼らは川から川へ舟を運び、要所に砦を築き、先住の人々から毛皮を貢がせながら、驚くほどの速さでシベリアを横断した。1639年にはオホーツク海に出た。1643年、ポヤルコフの一隊が南へ下って、アムール川(中国名は黒竜江)の流域に入った。そこは穀物の実る土地だった。凍土のシベリアで食糧に苦しむロシア人にとって、アムールは魅力の土地に見えた。

1650年代、ハバロフ、続いてステパノフの率いるコサックがアムール沿いを荒らした。そこに住むダウール人やドゥチェル人は、満洲人の王朝である清に毛皮を貢ぐ人々だった。コサックは村を襲い、穀物と毛皮を奪い、人質を取った。清はたびたび兵を送ってこれと戦った。しかし当時の清は、清の中国支配を経て中国の本土を固めることに力を割かれていた。南では三藩の乱(1673〜81年)、海では台湾の鄭氏との戦い(1683年に降伏)が続いた。

赤線がネルチンスク条約で定められた国境である。
赤線がネルチンスク条約で定められた国境である。Wikimedia Commons CIA · Public domain

それを片づけた康熙帝は、北に目を向けた。ロシアはアムールの上流のアルバジンに砦を築いて、周辺の支配の拠点にしていた。1685年、清軍はアルバジンを攻めて降伏させ、ロシア人を退去させた。ところがロシア人はすぐに戻って砦を建て直した。1686年、清は再び大軍で砦を囲んだ。包囲は冬を越え、800人余りいた守備兵は、飢えと壊血病で数十人にまで減ったと伝えられる。

両国には、それぞれ戦いを終わらせたい事情があった。モスクワから見れば、アムールはあまりにも遠かった。兵と食糧を送るには何年もかかり、ロシアは西でオスマン帝国やクリミア・ハン国との戦争を抱えていた。清にとっては、西のモンゴル高原で勢力を広げるジュンガルのガルダンが脅威になっていた。1688年、ガルダンは東のハルハ・モンゴルに攻め込んだ。ロシアとガルダンが手を結べば、清は北と西から挟まれる。康熙帝は北の境を早く固めたかった。

17〜19世紀の露中国境の変遷
17〜19世紀の露中国境の変遷Wikimedia Commons CIA · Public domain

1689年の夏、交渉の場に選ばれたのは、アムールの上流、シルカ川のほとりにあるロシアの町ネルチンスクだった。ロシアの全権は貴族のフョードル・ゴロヴィン、清の全権は皇帝の外戚で重臣の索額図(ソンゴトゥ)と佟国綱である。清の使節団は1万を超える兵と川船を引き連れて現れ、町を囲むように陣を張った。ロシア側の兵はその数分の一だった。交渉が決裂しかけるたびに、清は武力で迫る構えを見せた。

言葉の壁を越えたのは、二人のイエズス会士だった(イエズス会の創立)。北京の宮廷に仕えていたポルトガル人のトマス・ペレイラと、フランス人のジャン=フランソワ・ジェルビヨンである。ロシア人は満洲語も漢語も話せず、清の使節はロシア語を知らなかった。双方が共通して使えたのはラテン語だった。二人は清の側の通訳として同行したが、交渉が行き詰まると両陣営を行き来して妥協案を探った。ジェルビヨンの日記は、交渉の経過を伝える大事な史料になっている。

1734年の地図に描かれた「中国領タタール」の北の境界。ほぼネルチンスク条約で定めた露中国境と一致する
1734年の地図に描かれた「中国領タタール」の北の境界。ほぼネルチンスク条約で定めた露中国境と一致するWikimedia Commons Jean Baptiste Bourguignon d'Anville · Public domain

9月6日、条約が結ばれた。正文はラテン語で、満洲語とロシア語の文も作られた。国境は、西はアルグン川、東はゴルビツァ川から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の分水嶺に沿って海までとされた。山脈とウダ川の間の土地は、決めずに後に残した。ロシアはアルバジンを取り壊して撤退する。今後の逃亡者は互いに引き渡す。正式な通行証を持つ者は、国境を越えて交易することができる。境界には、満洲語、漢語、モンゴル語、ロシア語、ラテン語で条文を刻んだ石碑が建てられた。

この条約は、中国の王朝がヨーロッパの国と結んだ最初の条約とされる。中国の皇帝は伝統的に、周りの国々を朝貢する臣下として扱い、対等な国との条約という形をとらなかった。ネルチンスクでは、両国の代表が同じ格で署名し、同じ文言の条約を交わした。もっとも、清の宮廷は国内向けには、ロシアが恩恵を求めてきたという朝貢の言葉で記録しており、二つの見方は並んでいた。モスクワでは、条約が結ばれたのと同じ1689年の秋、17歳のピョートル1世が姉ソフィアの摂政政治を倒して実権を握っている。

ロシアはアムールの流域をあきらめた。その代わりに得たのは交易である。毛皮を持ったロシアの隊商が北京へ向かい、絹や綿布、そしてしだいに茶を持ち帰るようになった。1727年、両国はキャフタ条約を結び、モンゴル方面の国境を定めた。ロシアの公式の隊商は3年に1度、200人まで北京へ入ることが認められ、国境のキャフタ(ロシア側)と買売城(清側)に、恒常的な交易の市が開かれた。18世紀から19世紀にかけて、ロシアの茶の多くはここからラクダの隊商で運ばれた。長い陸路で運ばれた茶は、海を渡った茶より風味がよいとされ、ロシアの喫茶の習慣を育てた。

清はこのあと、背後の心配なくガルダンとの戦いに向かい、18世紀の半ばにはジュンガルを滅ぼした(ジュンガルの滅亡)。ネルチンスクで引かれた境界は、170年近く保たれた。それが崩れたのは、清がアヘン戦争と太平天国で弱った19世紀の半ばである。1858年のアイグン条約と1860年の北京条約で、ロシアはアムール川の左岸と、ウスリー川の東の沿海州を手に入れ、ウラジオストクの港を築いた。17世紀にあきらめた土地を、ロシアは、清の弱みにつけこんで、ほとんど戦わずに手に入れたのである。中国の側から見れば、この二つの条約は、欧米列強に結ばされた不平等条約の一つに数えられることになった。

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