概要
ロシアと清が、アムール川の流域で衝突して、初めて対等な条約を結んだ。イエズス会士のペレイラとジェルビヨンがラテン語で仲介した。ロシアはアムールを諦め、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を境に。代わりに北京での交易が認められた。中国が西洋の国と結んだ最初の条約で、170年、破られなかった。1727年のキャフタ条約で、モンゴル方面の国境と、恒常的な交易の場が決まった。
場所
51.97°N 116.55°E · ロシア・ザバイカリエ
本文
17世紀、ロシアのコサックがシベリアを東へ横断した。1639年、オホーツク海。1643年、ポヤルコフがアムール(黒竜江)へ。1650年代、ハバロフとステパノフが、アムール沿いのダウール人(清の朝貢民)から毛皮を取り、村を焼いた。清は康熙帝の時代。三藩の乱(1673〜81年)と台湾(1683年)を片づけて、北へ向かった。
1685年と1686年、アルバジン(ロシアの砦)。清が2度攻めて、2度目は囲んだ。ロシアの守備兵826人が66人に減った。モスクワは、シベリアの遠さと、西の戦争(トルコ、ポーランド)で、アムールを守れなかった。清は、ジュンガルのガルダンとの戦いを控えていて、北を片づけたかった。
1689年8月、ネルチンスク(アムールの上流のシルカ川沿い、ロシアの町)。ロシア側はフョードル・ゴロヴィン、清側は索額図(ソンゴトゥ)と佟国綱。清は1万5000の兵と艦隊で来た(威圧のため)。ロシアは1500。
通訳。イエズス会士2人。トマス・ペレイラ(ポルトガル人)とジャン=フランソワ・ジェルビヨン(フランス人)。清の側に立ったが、両方の間を取り持った。交渉はラテン語で行われた。正文はラテン語、写しが満洲語とロシア語。
9月6日(ロシア暦8月27日)、条約。(1)国境は、アルグン川、ゴルビツァ川、そして外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の分水嶺。ウダ川流域は保留。(2)ロシアはアルバジンを壊して撤退する。(3)逃亡者は相互に引き渡す。(4)通行証を持つ者は、両国で交易できる。(5)境界に石碑を立てる(満洲語、ロシア語、ラテン語、モンゴル語、漢語)。
中国が、外国と、対等の形式で結んだ最初の条約。清は自分を「上」に置く朝貢の形式を使わなかった。ロシアはアムールを150年、諦めた(1858年のアイグン条約と1860年の北京条約で取った)。
代わりに、交易。ロシアの隊商が3年に一度、北京へ行けるようになった。毛皮と、絹と、そして茶。1727年、キャフタ条約(ラグージンスキーと清)で、モンゴル方面の国境が決まり、キャフタ(ロシア側)とマイマイチェン(清側)で、恒常的な交易が始まった。18〜19世紀、ロシアの茶は全部ここから陸で来た(「キャフタ茶」。海路の茶より高級とされた)。
170年、この国境は破られなかった。ヨーロッパの国と中国の間で、これほど長く守られた条約は他にない。