アフリカ分割
概要
ベルリン会議を機に、ヨーロッパ諸国がアフリカをほぼ全域分け取りした。境界は現在も残る。
本文
1870年代の初め、ヨーロッパの国々が支配していたのは、アフリカの海岸沿いを中心にした一部の土地にすぎなかった。北のアルジェリアのフランス領、南端のケープ植民地、西海岸の交易の拠点などである。内陸の多くは、アフリカの人々の王国や首長国、共同体が治めていた。ところが40年後の1914年には、独立を保っていたのはエチオピアとリベリアだけになっていた。
これほど急に分割が進んだのには、いくつかの理由がある。一つは技術だ。マラリアの特効薬になるキニーネが19世紀前半に取り出され、広く使われるようになったことで、ヨーロッパ人が内陸で生き延びられるようになった。蒸気船は川をさかのぼり、連発できる銃や機関銃は、数の少ない軍でも大きな軍を打ち破ることを可能にした。探検家たちの旅も内陸の情報をもたらした。行方の知れなくなった宣教師を記者が探し当てたスタンリー、リヴィングストンに会うの話は、ヨーロッパの新聞で大きく報じられた。

もう一つは、ヨーロッパの国どうしの競争だった。1869年にスエズ運河が開くと、インドへの道を守るため、イギリスは1882年にエジプトを占領した。統一したばかりのドイツやイタリアも植民地を求めた。ベルギー国王レオポルド2世は、コンゴ盆地の広大な土地を自分個人のものにしようとしていた。原料や市場への期待、国の威信、そしてよその国に先を越されることへの恐れが、競争を加速させた。
1884年11月から翌年2月にかけて、ドイツの宰相ビスマルクの呼びかけで、ヨーロッパの国々とアメリカ、オスマン帝国の代表がベルリンに集まった。ベルリン会議とアフリカ分割である。会議は、海岸の土地を新たに領有するなら他国に通告すること、その土地を実際に支配していることを領有の条件にすることなどを決めた。コンゴ盆地での自由な交易も約束され、レオポルドのコンゴ自由国が認められた。この会議にアフリカ人の代表は一人もいなかった。

会議がアフリカを地図の上で分けたわけではない。しかし「先に実効支配した者が取る」という決まりは、各国を内陸への進出に駆り立てた。ヨーロッパ人の役人や将校は、現地の首長に意味のよく分からない条約に署名させ、それを根拠に領有を主張した。抵抗すれば軍を送った。1898年には、ナイル川上流のファショダで、アフリカを東西に横断しようとするフランスと、南北に縦断しようとするイギリスの部隊が向き合い、戦争の寸前までいった。
アフリカの人々は各地で抵抗した。西アフリカのサモリ・トゥーレは十数年にわたってフランスと戦った。南アフリカでは、ズールー王国の軍が1879年のイサンドルワナの戦いでイギリス軍を破っている。1896年のアドワの戦いでは、メネリク2世が率いるエチオピア軍がイタリア軍に大勝し、独立を守り抜いた。

支配は暴力を伴った。コンゴ自由国では、ゴムの採集の割り当てを果たせない人々の手が切り落とされ、多くの人が死んだ。宣教師やジャーナリストの告発で国際的な非難が高まり、1908年、コンゴはレオポルド個人の手からベルギー国家の植民地に移された。ドイツ領南西アフリカではヘレロ・ナマ虐殺が起き、ドイツ領東アフリカではマジマジ蜂起が鎮圧された。南アフリカでは、イギリスがオランダ系の移民の国々を相手にボーア戦争を戦った。
こうして引かれた境界線には、直線の部分が多い。緯度や経度、川の流れ、あるいは地図の上の二点を結んで決められ、民族の分布も、昔からの交易路も、水を分け合う仕組みも、ほとんど考えられていなかった。一つの民族が複数の植民地に分けられ、対立していた集団が一つの植民地にまとめられた。ソマリ人は、イギリス、イタリア、フランスの植民地と、エチオピアに分かれて暮らすことになった。

第二次世界大戦の後、アフリカの植民地は次々に独立した。1957年のガーナの独立に続き、1960年には17の国が独立してアフリカの年と呼ばれた。新しい国々の国境は、植民地の境界がほぼそのまま引き継がれた。
境界を引き直す道もありえた。しかし、どこで線を引き直すかをめぐって、無数の争いが起きることが予想された。1963年、独立した国々はアフリカ統一機構の設立にこぎつけた。この機構は翌1964年の首脳会議で、独立したときの国境を尊重するという決議を採択した。ベルリンの会議室で始まった線引きが、いまもアフリカの国境として残っている。

植民地の経済も、その後のアフリカに影を残した。各地で、綿花やカカオ、ゴム、落花生といった、ヨーロッパへ売るための作物を作ることが強いられた。鉄道は、内陸の鉱山や農園から港へ向かって一本ずつ引かれ、隣の植民地とはつながっていなかった。二度の世界大戦では、多くのアフリカ人がヨーロッパの国の兵として戦場に送られた。その後もナイジェリアのビアフラ戦争や、スーダンの南北の対立など、植民地時代に一つにまとめられた土地での紛争は続いた。