バルフォア宣言

概要
外相バルフォアからロスチャイルド卿への67語の手紙。「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを好意的に見る。ただし、既存の非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的権利を害してはならない」。同じ土地を、フサインにも(1915年)、フランスにも(サイクス・ピコ、1916年)約束していた。「ある民族が、別の民族に、第三の民族の土地を約束した」(ケストラー)。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
アーサー・バルフォアAD1848年7月25日–AD1930年3月19日 · 手紙を書いた本文
19世紀末のヨーロッパで、ユダヤ人に対する迫害と差別は新しい段階に入っていた。ロシアでは1881年以降ポグロム(集団暴行)が繰り返され、フランスではユダヤ系の将校ドレフュスがスパイの濡れ衣を着せられた。ウィーンの記者テオドール・ヘルツルは1896年に『ユダヤ人国家』を書き、翌1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開いた。目標は、パレスチナにユダヤ人のための「公法によって保障された郷土」を作ることだった。当時のパレスチナはオスマン帝国の一部で、第一次世界大戦が始まった1914年ごろの人口はおよそ70万。そのうちユダヤ人は6万ほどで、その半数は19世紀末以降の移住者だった。大多数はアラビア語を話すムスリムとキリスト教徒だった。
1914年、オスマン帝国はドイツの側で参戦した。イギリスは、スエズ運河とインドへの道を守るためにも、戦後の中東に影響力を確保したかった。そのために、イギリスは戦争中に三つの約束を重ねることになる。第一に、1915年10月、エジプト高等弁務官マクマホンがメッカの太守フサインに書簡を送り、オスマンに対して立ち上がるならアラブの独立を支持すると伝えた。その範囲は曖昧で、パレスチナが含まれていたかどうかは、のちに激しい論争になる。フサインは1916年6月に「アラブの反乱」を起こした。第二に、1916年5月、イギリスとフランスは秘密のサイクス・ピコ協定を結び、戦後のオスマン領を分け合う線を引いた。パレスチナの大部分は国際管理とされた。そして第三の約束が、1917年11月の宣言である。

宣言の背後には、何人かの人物の動きがあった。ロシア生まれでマンチェスター大学の化学者だったハイム・ワイツマンは、シオニズム運動の指導者として、イギリスの政治家たちに粘り強く働きかけた。彼が爆薬の原料となるアセトンを微生物で作る方法を開発して戦争に貢献したことは事実だが、その見返りに宣言が出されたという話は、首相ロイド・ジョージの回想録が広めた単純化だとされる。ロイド・ジョージは非国教徒の家で聖書に親しんで育ち、パレスチナの地名には西部戦線の地名より馴染みがあると語った。外相のアーサー・バルフォアは首相時代の1906年からワイツマンと面識があった。
政府の計算も一つではなかった。アメリカとロシアのユダヤ人の世論を連合国の側に引き寄せたい。1917年3月の革命で戦争から抜けそうなロシアに、ユダヤ系の革命家を通じて働きかけたい、という期待もあった。そして何より、スエズ運河の東にあるパレスチナを、フランスに渡さずイギリスの影響下に置きたかった。シオニストへの支持は、それを正当化する手段にもなった。

閣内で強く反対したのは、インド相エドウィン・モンタギューだった。彼自身がユダヤ人で、イギリスのユダヤ人はイギリス人であり、ユダヤ人に別の「民族の郷土」を与える宣言は、各国の反ユダヤ主義者に、ユダヤ人を追い出す口実を与える、と覚書で訴えた。草案は何度も練り直された。「国家」という語は避けられ、「パレスチナをユダヤ人の民族的郷土として再建する」という表現は、「パレスチナにユダヤ人のための民族的郷土を建設する」に弱められた。郷土はパレスチナの全体ではなく、その中の一部という含みになった。
10月31日に戦時内閣が承認し、1917年11月2日付で、バルフォアはイギリスのシオニストの有力者ウォルター・ロスチャイルド卿に手紙を送った。英語でわずか67語の本文は、こう言っている。国王陛下の政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族的郷土を建設することを好意をもって見ており、その達成のために最善の努力を払う。ただし、パレスチナに現存する非ユダヤ人の共同体の市民的・宗教的権利、およびほかの国々でユダヤ人が享受している権利と政治的地位を害することは、何もなされないものと明確に了解される。

宣言は11月9日に新聞に載った。同じころロシアではボリシェヴィキが政権を取り、旧政府の文書からサイクス・ピコ協定を暴露した。12月、アレンビー将軍の率いるイギリス軍がエルサレムに入った。戦後の1920年、サン・レモ会議でパレスチナはイギリスの委任統治領と決まり、1922年、国際連盟が承認した委任統治の条文には、バルフォア宣言の文言がそのまま取り込まれた。一通の手紙が、国際法上の義務になったのである。
宣言の中で、パレスチナの人口の9割を占めるアラブの人々は、「現存する非ユダヤ人の共同体」と呼ばれ、名前を与えられていない。守るとされたのは「市民的・宗教的権利」で、政治的な権利、つまり自分たちの土地の行方を自分たちで決める権利には触れていなかった。バルフォア自身、1919年の覚書で、パレスチナでは住民の希望を聞く手続きを取るつもりすらない、シオニズムは70万人のアラブ人の願いや偏見よりはるかに深い意味を持つ、という趣旨のことを書いている。作家アーサー・ケストラーは1949年、これを、一つの民族が第二の民族に第三の民族の土地を厳かに約束したもの、と評した。

委任統治のもとでユダヤ人の移民は増え、1930年代にはナチスの迫害を逃れる人々が押し寄せた。アラブの人々の反発は暴動と反乱になり、イギリスは両者の板挟みになって、ついに統治を投げ出した。1948年5月14日、イスラエルの建国が宣言され、その戦争で70万人前後のパレスチナのアラブ人が故郷を追われた。宣言から100年の2017年、イギリスのメイ首相は宣言に果たした役割を誇りに思うと述べ、パレスチナの指導者たちはイギリスに謝罪を求めた。同じ67語は、いまも二つの民族にとって正反対の意味を持っている。