ブラジルの独立

概要
本国の王子が自ら皇帝となって独立した。南米で唯一、帝政として始まる。
場所
-22.91°N -43.17°E · ブラジル
本文
ブラジルは1500年にポルトガルの船団が到達して以来(カブラルのブラジル到達)、ポルトガルの植民地だった。北東部の海岸には砂糖の農園が広がり、アフリカから運ばれた奴隷がそこで働かされた(ルアンダの建設と奴隷の積出)。18世紀には内陸のミナスジェライスで金が見つかり、富はリスボンへ流れ込んだ。だがブラジルが本国を通さずに外国と交易することは禁じられ、印刷所を置くことさえ許されていなかった。
転機は、ヨーロッパからやって来た。1807年、ナポレオン・ボナパルトがイギリスに味方するポルトガルに軍を送ると、摂政の王子ジョアンは、精神を病んでいた母の女王マリア1世を伴い、宮廷と政府ごと船に乗り込んで、イギリス海軍に守られながら大西洋を渡った。1808年、一行はリオデジャネイロに着いた。ヨーロッパの王が自分の植民地へ移り住んで、そこから国を治めるという例のない事態だった。

リオは帝国の首都になった。ジョアンはブラジルの港を友好国に開き、銀行や印刷所、王立の図書館や植物園、陸軍や海軍の学校を作った。1815年にはブラジルを植民地から王国に引き上げ、ポルトガルと対等な連合王国の一部とした。翌年に母が死ぬと、ジョアンはリオでジョアン6世として即位した。ナポレオンが倒れた後も、王はなかなか本国へ戻ろうとしなかった。
1820年、ポルトガルの港町ポルトで自由主義の革命が起き、議会が開かれた。議会は王の帰国を求め、ジョアン6世は1821年、息子のペドロを摂政としてブラジルに残して、リスボンへ帰った。別れ際に、ブラジルが離れていくなら、誰か冒険者の手に渡る前に、おまえがその王冠をかぶれ、と言い残したと伝えられる。

リスボンの議会は、ブラジルを再び植民地の地位に戻そうとした。リオに置かれた役所を廃し、各地の州を本国に直接従わせ、摂政のペドロにも帰国を命じた。ブラジルの有力者たちは強く反発し、ペドロに残るよう求める署名を集めた。1822年1月9日、ペドロは、皆の幸せのためなら、私はここに留まると民に伝えよ、と答えた。この日は「私は留まる」の日として記念されている。
ペドロの相談役となったのが、ヨーロッパで鉱物学を修めて帰国した学者のジョゼ・ボニファシオである。妃のレオポルディーナも、独立を強く後押しした。1822年9月7日、サンパウロの近くのイピランガ川のほとりで、ペドロはリスボンの議会からの新たな命令と、妃やボニファシオからの手紙を受け取った。ペドロはその場で、独立か死か、と叫んだと伝えられる。12月、ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として戴冠した。

独立が戦争なしに済んだわけではない。北東部のバイーアや北部では、ポルトガル軍とその支持者が抵抗し、1823年まで戦いが続いた。ブラジルは、イギリス人の提督コクランを雇って海軍を率いさせ、ポルトガル軍を海から追い出した。それでも、スペイン領の南アメリカがシモン・ボリバルやホセ・デ・サン・マルティンのもとで十数年に及ぶ独立戦争を戦い、多くの共和国に分かれたのに比べると、ブラジルは広大な領土をまとめたまま、比較的短い戦いで独立を果たした。1825年、ポルトガルはイギリスの仲介で独立を認め、ブラジルは200万ポンドの補償を支払った。
王家の王子がそのまま皇帝になったことで、植民地の時代の社会の仕組みも、そのまま残った。大地主が政治を握り、奴隷制も続いた。独立を支えた有力者たちの多くが、奴隷を使う農園の持ち主だったからである。ペドロ1世は専制的な振る舞いで反発を買い、1831年、5歳の息子に位を譲ってポルトガルへ去った。

その息子が、半世紀以上帝位にあったペドロ2世である。学問を好む穏やかな皇帝のもとで、ブラジルは政治的に安定した。1850年に奴隷の輸入が止まり、1888年、皇帝の娘イザベルが摂政として署名した法律で、奴隷制はついに廃止された(ブラジルの奴隷制廃止)。アメリカ大陸で最後だった。翌1889年、奴隷制の廃止に不満を持つ地主層の支持も失った帝政は、軍のクーデターで倒れ、ブラジルは共和国になった。南アメリカで唯一、帝国として始まった国の67年の帝政は、こうして終わった。9月7日は、いまもブラジルの独立記念日である。