できごと

イブン・サウードのリヤド奪還

Battle of Riyadh
AD1902年1月15日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国オスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアエチオピア帝国ソコト帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランスアフガニスタンアルジェリアイタリアKanem-Bornuウテテラ王国中央アジアの諸ハン国Sultinate of Zanzibarルーマニアチュニジアネパールボルグ諸国Harer (Egypt)オマーンブルガリアギリシャセルビアボスニア・ヘルツェゴビナセイロンAD1902年1月15日リヤド
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1902年1月15日の版図を描いています(32勢力)。

概要

クウェートに亡命していたサウード家の20代の若者が、40人で夜、リヤドの城壁を越え、夜明けにラシード家の総督を門で殺した。ワッハーブ派の戦士イフワーン。30年で、ナジュド、ハサー、ヒジャーズ(メッカとメディナ)。1932年、サウジアラビア王国。6年後、石油。

場所

リヤド
24.69°N 46.72°E · サウジアラビア

関わった人(1)

イブン・サウードAD1875年頃–AD1953年11月9日 · 奪った

本文

サウード家の歴史は18世紀の半ばにさかのぼる。1744年頃、アラビア半島中央部ナジュドの小さな町ディルイーヤの首長ムハンマド・イブン・サウードが、説教師ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと手を結んだ。外の者がワッハーブ派と呼ぶこの運動は、自らを「唯一神を信じる者」と称し、聖者の墓への参詣やスーフィーの儀礼、シーア派の信仰を多神の崇拝として退けた。首長が剣を、説教師が教えを受け持つ同盟は、半島の中央を押さえ、1803年にはメッカにまで入った。

オスマン帝国はエジプト総督ムハンマド・アリーに討伐を命じ、1818年、ディルイーヤは破壊され、当主はイスタンブールで処刑された。一族はリヤドを都に国を建て直したが(第二次サウード国)、19世紀後半に後継争いで弱り、北のハーイルを拠点とするラシード家に押された。1891年、ムライダの戦いの後、サウード家はリヤドを失い、各地を転々としたのちクウェートに身を寄せた。

マスマク要塞(リヤド)
マスマク要塞(リヤド)Wikimedia Commons Francisco Anzola · CC BY 2.0

このとき少年だったのが、アブドゥルアズィーズ、のちにイブン・サウードと呼ばれる人物である。生年は1875年頃とされるが、1876年、1880年とする説もある。クウェートでは、1896年に兄弟を殺して首長になったムバーラク・サバーハの客として育ち、首長の館で、湾岸に勢力を伸ばすイギリス、ラシード家を後押しするオスマン帝国、その間で動く部族の駆け引きを間近に見た。

1901年の秋、20代半ばのアブドゥルアズィーズは、親族と従者40人ほど(60人とも)を連れてクウェートを出た。ムバーラクの支援は限られ、砂漠で数か月を過ごすうちに離れる者も出た。ラマダーンの明けた1902年1月、一行はリヤドの近くに潜んだ。

アブドゥルアズィーズ(イブン・サウード)の肖像
イブン・サウードWikimedia Commons Saudi Press Agency · Public domain

1902年1月15日の夜(13日とする史料もある)、少数の者が椰子の幹を梯子にして城壁を越えた。目当ては、ラシード家が置いた総督アジュラーンである。アジュラーンは夜はムスマク城砦に泊まり、朝になると門を出て町の家へ向かう。一行は向かいの家に入り込んで家人を閉じ込め、夜明けを待った。朝、門が開いてアジュラーンが姿を見せたところへ襲いかかった。アジュラーンは門の内へ逃げ戻ろうとし、従兄弟のアブドゥッラー・イブン・ジルウィーが投げた槍は門の扉に突き立った。その穂先はいまも扉に残っていると言われる。一行はくぐり戸から城内へなだれ込み、アジュラーンは殺され、守備兵は降伏した。

この夜襲は、サウジアラビアで建国の物語として繰り返し語られる。ただ、リヤド一つを取っただけで、ナジュドの支配が決まったわけではない。ラシード家はオスマン軍の支援を受けて反撃し、決着がついたのは1906年、ラウダト・ムハンナの戦いでラシード家の当主が戦死してからである。

キング・ハーリド国際空港(リヤド)
キング・ハーリド国際空港(リヤド)Wikimedia Commons liton islam · CC BY 3.0

勢力を広げる道具になったのがイフワーン(同胞)である。1912年頃から、遊牧の民を宗教的な農業集落(ヒジュラ)に住まわせ、熱烈な戦士に育てた。1913年、オスマン帝国の守備隊を追ってペルシア湾岸のハサーを取った。のちに大油田が見つかる地方である。1915年にはイギリスとダーリーン条約を結んで保護と援助を受けた。クウェート駐在のイギリスの政務官シェイクスピア大尉は彼と親しくなったが、同じ年、ラシード家との戦いに同行して戦死した。

第一次世界大戦でオスマン帝国が崩れると、半島の勢力図は大きく変わった。1921年、ハーイルを落としてラシード家を滅ぼし、1924年から25年にかけて、西のヒジャーズを攻めた。メッカの太守フサインはイギリスと組んでオスマン帝国に反乱した人物だったが、戦後イギリスの後ろ盾を失っていた。メッカとメディナ、ジッダが落ち、アブドゥルアズィーズは1926年にヒジャーズの王を名乗った。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

ところがイフワーンは、イギリスが引いたイラクやトランスヨルダンとの国境を認めず、越境の襲撃を続けた。電信や自動車を異端の道具として嫌う者もいた。1929年、アブドゥルアズィーズは機関銃と自動車を持つ軍でサビラの戦いに臨み、イフワーンの反乱を潰した。自分を押し上げた戦士たちを、国を保つために切り捨てたのである。1932年9月23日、二つの王国は統一され、「サウジアラビア王国」となった。王家の名を国の名に冠した国である。

国は貧しく、収入はメッカ巡礼に頼っていた。1933年、アメリカの石油会社に採掘権を与え、1938年、東部のダンマームで商業規模の石油が出た。1945年2月14日、スエズ運河のグレート・ビター湖に浮かぶ巡洋艦クインシーの上で、フランクリン・ローズヴェルトと会談した。石油とアメリカの安全保障を結びつける関係は、第二次世界大戦の終わり近くのこの会談から始まったとされる。

サウジアラビア内務省庁舎(リヤド)
サウジアラビア内務省庁舎(リヤド)Wikimedia Commons Jon Rawlinson · CC BY 2.0

アブドゥルアズィーズは1953年11月9日、ターイフで死んだ。王位はその後、息子たちに兄弟の順で受け継がれ、サウード、ファイサル、ハーリド、ファハド、アブドゥッラー、サルマーンと続いた。40人ほどで城壁を越えた夜から始まった家の支配は、孫の世代に入ったいまも続いている。

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