ポワティエの戦い(1356年)

概要
黒太子がフランス王ジャン2世を捕虜にした。王はロンドンに連れて行かれ、身代金は300万エキュ、フランスの二年分の歳入。息子が人質を逃がすと、王は自分で戻って、ロンドンで死んだ。
場所
46.58°N 0.34°E · フランス
関わった人(1)
エドワード黒太子AD1330年6月15日–AD1376年6月8日 · 勝者本文
百年戦争が始まって二十年近く、イングランドはフランスの領土を大きく奪えずにいた。1346年のクレシーの戦いで大勝し、翌年カレーを取ったが、その後は黒死病が両国を襲い、戦いは小休止に入った。戦争が再び動き出したのは1350年代である。イングランド王エドワード3世の長男エドワード、のちに黒太子と呼ばれる王子が、南西フランスのガスコーニュ、ボルドーを拠点に兵を率いた(エドワード黒太子)。
1355年の秋、黒太子はボルドーから地中海の近くまで、南フランスを2か月かけて駆け抜けた。騎行(シュヴォシェ)と呼ばれるやり方で、城を攻め落とすのではなく、村を焼き、畑を荒らし、町から身代金を取り立てて、敵の王の威信と税収を削るのである。翌1356年8月、黒太子は今度は北へ向かい、ロワール川を目指した。北から来るはずのランカスター公の軍と合流するつもりだったが、川を渡れず、戦利品を積んだまま南へ引き返し始める。

フランス王ジャン2世は、大軍を集めてこれを追った。9月の半ば、両軍はポワティエの南東で向き合った。黒太子の兵は6000から8000ほどとされ、フランス軍はその倍以上だったと見られるが、数には諸説ある。9月18日は日曜日で、教皇の使いとして来ていたペリゴールの枢機卿タレーランが、両者の間を行き来して和平を探った。黒太子は奪った城と捕虜を返す条件を出したとも伝えられるが、王は受け入れなかった。この一日の間に、黒太子は垣根と葡萄畑と沼地に囲まれた丘に陣を固めた。
9月19日の朝、戦いが始まった。フランス軍は、10年前のクレシーで、騎士の突撃がイングランドの長弓に崩されたことを覚えていた。そこで、ごく一部の騎兵を先に突撃させて弓兵を崩し、残りの騎士には馬を降りさせて歩いて攻めさせた。だが、先頭の騎兵は狭い道と垣根の間で、長弓の矢に馬を射られて崩れた。歩いて進んだ騎士たちは、重い鎧で疲れ切って敵の陣にたどり着いた。

フランス軍は三つの隊に分かれていた。最初の隊は王太子シャルルが率いたが、激しく戦ったのち退いた。王の弟オルレアン公の第二の隊は、ほとんど戦わずに戦場を離れてしまった。残ったのは、王自身が率いる第三の隊である。黒太子は、ガスコーニュの貴族、ビュシュの領主ジャン・ド・グライイに少数の騎兵を預けて丘を回り込ませ、王の隊の背後を突かせた。前と後ろから攻められ、王の周りの騎士は次々に倒れた。
王のそばには14歳の末の息子フィリップがいて、父上、右にご用心を、左にご用心を、と叫び続けたと年代記作者フロワサールは伝える。のちにブルゴーニュ公となるこの王子が勇胆公と呼ばれるのは、この日の振る舞いによるとされる。王は斧を振るって戦ったが、ついに囲まれ、フランスから追放されていた一人の騎士に手袋を差し出して降伏した。王と王子を捕まえた手柄を争って、兵士たちが王を引っ張り合うほどだったという。

その夜、黒太子は捕虜となった王を食事に招き、自分は同じ席には着かず、ひざまずいて給仕したとフロワサールは書いている。騎士道の物語の一場面として名高いが、身代金の値打ちが莫大な捕虜を丁重に扱うのは、当時の戦争の作法でもあった。王はボルドーで冬を越し、1357年の春、ロンドンへ送られた。行列で王は立派な白馬に乗り、黒太子は小さな黒い馬でその横を進んだと伝えられる。王はサヴォイの館に住み、狩りや宴を楽しむ、囚われとは思えない暮らしを送った。
王のいなくなったフランスは混乱した。パリでは商人の頭エティエンヌ・マルセルが三部会を動かして王太子の政治に介入し、1358年には北フランスの農民が貴族に対して立ち上がるジャックリーの乱が起きた。王太子シャルルは一時パリを追われたが、やがて都を取り戻し、王を買い戻すための税を集めていく。王の捕囚は、王の権威を弱めたが、同時に、国全体が王のために税を払うという考えを広める機会にもなった。

1360年のブレティニーの条約で、王の身代金は300万エキュと決まった。フランスの年間の歳入の二年分ほどにあたるとされる額である。イングランドはアキテーヌの全域とカレーなどを完全な領土として得た。この年に新しく作られた金貨は、王が馬に乗る姿を刻み、フランと呼ばれた。王が自由の身になったことを記念する名だという説が知られている。
王は身代金の一部が払われたことで釈放されたが、残りが払われるまで、息子たちが人質としてイングランドに残された。1363年、そのうちの一人アンジュー公ルイが、約束を破って逃げ帰った。ジャン2世は、名誉を守るとして自らイングランドに戻ると言い出し、周囲が止めるのも聞かずにロンドンへ渡った。条約の残りの交渉を自分で進めるためだったとする見方もある。翌1364年4月、王はサヴォイの館で病にかかって死んだ。イングランドで盛大な葬儀が行われたあと、遺体はフランス王の墓所サン・ドニへ帰った。

ポワティエは、クレシー、そして60年後のアジャンクールと並んで、イングランドの長弓の三大勝利として語られる。だが、そのあと王となったシャルル5世は、大きな会戦を避け、城を一つずつ取り戻す戦い方に切り替えた。1370年代までに、ブレティニーで失った土地の大半はフランスに戻っている。戦場での大勝利が、そのまま戦争の勝利にはならなかったのである。