アメリカバイソンの激減
概要
19世紀の初め、北アメリカに3000万頭以上いた。1889年、野生の個体は1000頭を割った。鉄道が平原を横切り、なめし技術の改良で皮が工業用ベルトに使えるようになると、狩猟者が押し寄せた。一人で一日100頭を撃った記録がある。骨は肥料に、皮は工場へ。軍がこれを黙認あるいは奨励した面がある。平原の先住民はバイソンに依存していた。獣を絶やせば、彼らは居留地へ来るしかない。「インディアンの糧食庫を殺す」と、ある将軍が書いている。
場所
40.00°N -100.00°E · アメリカ中西部
本文
19世紀の初め、北アメリカの大平原には、アメリカバイソンが3000万頭から6000万頭いたと推定されている。推定には大きな幅があり、最もよく引かれるのは3000万という数である。群れが移動すると地平線まで埋まり、旅人の記録には、一つの群れが通り過ぎるのに何日もかかったというものがある。それが1889年、野生で生き残っていたのは、推定でわずか1091頭になっていた。
平原に暮らす先住民、ラコタやシャイアン、アラパホ、コマンチ、カイオワ、ブラックフット、クロウといった人々の暮らしは、バイソンの上に成り立っていた。肉は生で食べ、干して保存し、脂や木の実と混ぜて携帯食にした。皮は円錐形の住まいの覆いになり、衣服や寝具、盾や袋、川を渡る小舟にもなった。骨は道具や矢じりに、腱は弓の弦や縫い糸に、胃や膀胱は水袋や鍋になった。

木の少ない平原では、乾いた糞が燃料だった。角からは匙や杯を作り、ひづめからは膠を取った。一頭から百を超える使い道があったと記録されている。バイソンは食べ物であると同時に、祈りと儀礼の中心にある存在でもあった。
17世紀から18世紀にかけて、スペイン人の持ち込んだ馬が平原に広がると、先住民は騎馬の民になった。馬に乗って群れを追う狩りは格段に効率がよくなり、平原の文化は大きく花開いた。同時に狩りの圧力も高まり、19世紀の初めには一部の地域でバイソンが減り始めていたという研究もある。だが、それから数十年のうちに数千万頭がほとんど消えたのは、まったく別の力によるものだった。
一つ目は鉄道である。1869年、大陸横断鉄道の開通が完成し、線路が平原を横切った。狩猟者は簡単に平原へ入れるようになり、剥いだ皮は貨車で東部へ運び出せるようになった。群れの通り道は線路で分断された。

鉄道会社のなかには、走る列車の窓から乗客にバイソンを撃たせるものまであった。撃たれた獣は、そのまま野にうち捨てられた。のちに西部劇の興行で名を馳せる「バッファロー・ビル」ことウィリアム・コーディは、鉄道の建設に携わる労働者に肉を供給するため、1年半ほどの間に4000頭以上を撃ったと自ら語っている。その彼が晩年には、バイソンの保護を訴えるようになる。
二つ目は、皮の値打ちが一変したことだった。1870年代の初め、ヨーロッパやアメリカのなめし業者が、バイソンの皮を丈夫な工業用の革に仕上げる方法を確立した。当時の工場では、蒸気機関の力を機械へ伝えるのに革のベルトを使っていた。それほどの力に耐えられる素材は、革のほかに無かった。一枚の皮が数ドルで売れるようになり、バイソンは一夜にして工業の原料になった。

数千人の狩猟者が平原に押し寄せた。多くは「スタンド」と呼ばれるやり方で撃った。群れから離れた場所に身を伏せ、遠くまで弾の届く大口径のシャープス銃で、まず群れを率いる一頭を倒す。ほかのバイソンは逃げずに倒れた仲間の周りに集まるので、それを順に撃っていく。
一人で一日に百頭以上を撃ったという記録もある。狩猟者が取るのは皮だけで、肉は捨て置かれた。舌だけが珍味として東部へ送られた。平原には、皮を剥がれた死骸が見渡すかぎり転がった。

その後には、骨を拾う人々がやって来た。白くなった骨を集めて駅まで運び、肥料にする骨粉や、砂糖を精製するときに使う骨炭の原料として売った。1トンが8ドル前後になった。開拓民の中には骨拾いで食いつなぐ者もいて、駅のそばに骨が山のように積まれた写真が残っている。
そして三つ目が、最も重い要因、政府と軍の姿勢だった。アメリカ陸軍は、この殺戮を黙って見過ごし、ときには後押しした。南北戦争で北軍の騎兵を率い、戦後は西部の軍を指揮したフィリップ・シェリダン将軍は、1870年代にテキサス州議会でバイソンの保護に反対し、狩猟者たちこそインディアンの食糧庫を壊し、問題を解決していると述べたと伝えられる。この演説の記録の出どころについては歴史家の間に疑いもある。しかし、同じ趣旨の考えは何人もの軍人や役人の言葉に残っており、それが現実の政策として働いていたことは確かである。1874年、連邦議会はバイソンの乱獲を禁じる法案を可決したが、ユリシーズ・グラント大統領は署名せず、法案は成立しなかった。

軍にとって、平原の先住民との戦いは厄介なものだった。彼らは馬に乗って広い平原を移動し、正面からの決戦を避ける。だが食べ物の源を絶てば、戦わずに屈服させられる。バイソンがいなくなれば先住民は飢え、飢えれば居留地へ入り、政府の配給に頼るしかなくなる。実際、その通りになった。
1876年のリトルビッグホーンの戦いでカスターの部隊を全滅させたラコタとシャイアンの人々も、翌年には多くが降伏した。カナダへ逃れていたシッティング・ブルも、1881年、飢えた仲間とともに国境を越えて戻り、投降した。1890年にはウーンデッド・ニーの虐殺が起きる。1887年のドーズ法は居留地の共有の土地を個人に分け、残りを白人の入植者に開放した。先住民の持つ土地は、その後の半世紀ほどで、1億3800万エーカーから4800万エーカーにまで減った。

1883年、ダコタで最後の大きな群れが撃ち尽くされた。翌年からは、狩猟者がいくら探しても群れが見つからなくなった。1889年、スミソニアン協会のウィリアム・ホーナデイが調べたとき、野生のバイソンは1091頭で、そのうち200頭ほどが国立公園にいた。その公園の群れでさえ密猟で減り続け、1902年には23頭まで落ち込んだ。
ホーナデイはスミソニアンの剥製師で、1886年、博物館の標本を作るためにモンタナへ採集に出かけ、あまりの少なさに衝撃を受けた。標本を作り終えると、彼はバイソンを救う運動に身を投じた。1889年に報告書『アメリカバイソンの絶滅』を書き、1905年にはアメリカ・バイソン協会を作った。名誉会長はセオドア・ローズヴェルト大統領である。

ホーナデイはニューヨークのブロンクス動物園でバイソンを増やし、1907年には15頭を列車に乗せて、オクラホマのウィチタ山地の保護区へ送り返した。動物園で増やした獣を野に戻す、最初期の試みの一つだった。1894年には、イエローストーン国立公園の中で野生動物を狩ることを罰する法律もできていた。
いま北アメリカのバイソンは、約50万頭まで回復している。ただし、その大半は肉にするために牧場で飼われているもので、19世紀に試みられた牛との掛け合わせのなごりで、牛の遺伝子を受け継いでいるものも多い。遺伝的に純粋で、野生の群れとして暮らしているのは2万頭前後とされ、イエローストーンやカナダのウッドバッファロー国立公園などにいる。2016年、アメリカ合衆国はバイソンを国を代表する哺乳類に定めた。

1990年代からは、先住民の部族が自分たちの土地にバイソンを戻す取り組みを進めている。1991年に作られた部族間の協議会には、いまでは80を超える部族が加わり、合わせて2万頭以上を育てている。目的は肉を売ることではない。居留地では、配給の小麦粉や脂や砂糖に頼った食事が糖尿病や心臓の病の多さにつながったと考えられており、バイソンの肉を食卓に戻すことは健康を取り戻すことでもある。そして何より、バイソンとともにあった儀礼と文化を取り戻すことが目指されている。バイソンが戻れば私たちも戻る、という言葉が、その取り組みの中でしばしば語られる。