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Event / できごと

アメリカバイソンの激減

The destruction of the bison
AD1875年
重要度 5
AD1875年グレートプレーンズ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 場所と年から描いた図を置いています。

概要

19世紀の初め、北アメリカに3000万頭以上いた。1889年、野生の個体は1000頭を割った。鉄道が平原を横切り、なめし技術の改良で皮が工業用ベルトに使えるようになると、狩猟者が押し寄せた。一人で一日100頭を撃った記録がある。骨は肥料に、皮は工場へ。軍がこれを黙認あるいは奨励した面がある。平原の先住民はバイソンに依存していた。獣を絶やせば、彼らは居留地へ来るしかない。「インディアンの糧食庫を殺す」と、ある将軍が書いている。

場所

グレートプレーンズ
40.00°N -100.00°E · アメリカ中西部

本文

**数**。

19世紀の初め、北アメリカの平原に、**アメリカバイソン**が**3000万〜6000万頭**いたと推定される。

(推定には幅がある。3000万という数字が最もよく引かれる。)

群れが移動すると、地平線まで埋まった。旅行者の記録に「群れが通り過ぎるのに、**3日**かかった」というものがある。

**1889年、野生の個体は、推定 1,091頭**。

**平原の先住民**。

ラコタ、シャイアン、アラパホ、コマンチ、カイオワ、ブラックフット、クロウ。

彼らの生活は、バイソンの上に立っていた。

- **肉**——生で、乾かして(ジャーキー)、脂と混ぜて(ペミカン)。 - **皮**——ティピー(住居)の外皮、衣服、寝具、盾、モカシン、袋、舟(ブルボート)。 - **骨**——道具、鏃、そり、玩具。 - **腱**——弓の弦、縫い糸。 - **胃と膀胱**——水袋、鍋(焼いた石を入れて煮る)。 - **糞**——燃料(平原には木がない)。 - **角**——匙、杯、火薬入れ。 - **蹄**——膠。

(民族誌の記録で、バイソン一頭から**100以上**の用途が挙げられている。)

そして、宗教と儀礼の中心にあった。

**馬**。

17〜18世紀、スペインから逃げ出した、あるいは交易で得た**馬**が、平原に広がった。

先住民は、騎馬の民になった。バイソンの狩りが、格段に効率的になった。

(そして、彼らの狩猟圧も上がった。19世紀初頭には、既に一部の地域で、バイソンの減少が始まっていた、という研究がある。)

**なぜ、40年で消えたか**。

**(1)鉄道**。

1869年、**大陸横断鉄道**が完成した。

鉄道は、平原を横切った。

意味すること——

- **狩猟者が、簡単に平原へ入れる**。 - **皮を、簡単に東部へ運び出せる**。 - 群れの移動経路が、線路で分断された。 - 鉄道会社が、乗客に**列車から撃たせた**。「バイソン狩り列車」。撃った獣は、そのまま放置される。

(バッファロー・ビル——ウィリアム・コーディ——は、鉄道の建設労働者への食料供給のため、18か月で**4,282頭**を撃ったと自称した。彼は後に、西部劇のショーの興行主になり、そして晩年、バイソンの保護を訴えた。)

**(2)皮の需要**。

1870年代初め、**ドイツとイギリスのなめし業者**が、バイソンの皮を**工業用の革ベルト**に加工する技術を確立した。

産業革命の工場では、蒸気機関から機械へ動力を伝えるのに、**革のベルト**を使う。それが大量に必要だった。

(当時、動力の伝達に使えるほど丈夫な素材が、革以外になかった。)

一枚の皮が、**3ドル前後**で売れた。

これで、バイソンは、**工業の原材料**になった。

**(3)狩猟者**。

数千人が、平原に入った。

方法は、「**スタンド**」と呼ばれた。

群れから離れた場所に伏せ、遠距離から、**シャープス・ライフル**(50口径。有効射程500m以上)で撃つ。

まず、群れを率いる個体を撃つ。他の個体は、逃げずに、倒れた仲間の周りに集まる。

そこを、順に撃っていく。

**一人で、一日に100頭以上**という記録がある。

**皮だけを剥ぎ、肉は残した**。

(舌だけは、珍味として東部へ送られた。)

平原に、皮を剥がれた死骸が、無数に転がった。

その後、**骨拾い**が来た。白骨化した骨を集めて、鉄道で運び、**肥料**(骨粉)と、**砂糖の精製用の骨炭**に加工した。骨1トンが8ドル前後。

(骨を拾って生計を立てる開拓民がいた。骨の山が、駅に積み上がった写真が残っている。)

**(4)政策**。

これが、最も重い部分である。

アメリカ陸軍が、この殺戮を**黙認し、そして奨励した**。

**フィリップ・シェリダン**将軍(南北戦争の北軍の将軍。戦後、西部の軍を指揮した)。

彼の言葉として、繰り返し引用されるもの。

「**バイソンの狩猟者は、過去2年間で、正規軍が過去30年でやったより多くのことを、インディアン問題の解決のためになした。……彼らは、インディアンの糧食庫を破壊しつつある**。……

彼らに火薬と鉛を送れ。そして、彼らが殺し、皮を剥ぎ、売り尽くすまで、やらせよ。**そうすれば、平原にはまだら牛(家畜)とカウボーイが来る**」。

(この演説の原文の正確な出所については、歴史家の間で議論がある。しかし、同趣旨の発言は複数の将官の記録に残っており、政策の実態としては裏づけられている。)

1874年、テキサス州議会が、バイソンの保護法案を検討した。

シェリダンが、議会で証言して、**反対した**。

(連邦議会は1874年に保護法案を可決したが、**グラント大統領が署名せず、廃案になった**。)

**論理**。

平原の先住民との戦争は、軍にとって困難だった。彼らは馬に乗り、移動し、決戦を避ける。

しかし、**食料源を絶てば、戦わずに済む**。

バイソンがいなくなれば、先住民は飢える。飢えれば、**居留地へ来て、政府の配給を受けるしかない**。

これは、実際に、そうなった。

- 1876年、リトルビッグホーンの戦い(カスターの敗北)。 - 1877年、スー族の降伏。 - 1881年、シッティング・ブルの降伏(カナダから戻り、投降した)。 - 1890年、**ウンデッドニーの虐殺**。

(同じ時期、1887年の**ドーズ法**が、居留地の共有地を個人に分割し、余剰地を白人に開放した。先住民の土地は、1887年から1934年で、1億3800万エーカーから4800万エーカーへ減った。)

**最後の群れ**。

1883年、ダコタで最後の大きな群れが撃たれた。

以後、狩猟者が探しても、群れが見つからなくなった。

1889年の調査(ウィリアム・ホーナデイ、スミソニアン協会)で、**野生の個体、1,091頭**。うち、**イエローストーン国立公園に、約200頭**。

(そのイエローストーンの群れも、密猟で減り続けた。1902年、**23頭**まで減った。)

**保護**。

**ウィリアム・ホーナデイ**。スミソニアンの剥製師。

1886年、彼は「バイソンの標本を作るため」に、モンタナへ採集に出た。

見つけたのは、25頭だけだった。

彼は、衝撃を受けた。そして、標本を作った後、**保護の運動を始めた**。

1889年、報告書『**アメリカバイソンの絶滅**』。

1905年、**アメリカ・バイソン協会**を設立(セオドア・ローズヴェルト大統領が名誉会長)。

彼は、ニューヨークのブロンクス動物園でバイソンを繁殖させ、**西部へ送り返した**。

1907年、15頭をオクラホマのウィチタ山保護区へ、列車で送った。

(この計画は、数十年かけて続けられた。)

1894年、**レイシー法**(イエローストーン公園内の野生生物の保護と、罰則)。

**現在**。

北アメリカのバイソンは、約**50万頭**まで回復した。

ただし、その大半は、**牧場で飼育されている**(肉として売られる)。そして、多くが、19世紀の交配実験の結果、**ウシの遺伝子を含んでいる**。

遺伝的に純粋で、野生の群れとして自由に移動している個体は、**2万頭前後**とされる。イエローストーン、ウィンドケイヴ、カナダのウッドバッファロー国立公園。

2016年、アメリカ合衆国は、バイソンを**国獣**に定めた。

**先住民による回復**。

1990年代から、先住民の部族が、バイソンを自分たちの土地に戻す事業を始めた。

**インター・トライバル・バイソン評議会**(1991年設立)。現在、80近い部族が参加し、合わせて2万頭以上を管理している。

彼らの目的は、食肉産業ではない。食と、健康と、そして**儀礼と文化の回復**である。

(居留地の糖尿病と心疾患の高い罹患率が、配給された小麦粉と豚脂と砂糖の食事に由来する、という認識がある。)

ある部族の指導者の言葉が、繰り返し引用される。

「**バイソンが戻れば、我々も戻る**」。

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