人物

フリードリヒ1世(バルバロッサ)

Frederick I Barbarossa
AD1122年頃 – AD1190年6月10日(享年68・推定)
神聖ローマ帝国重要度 4

概要

赤髭の皇帝。イタリアに六度遠征し、ミラノを壊し、レニャーノで負け、教皇と和解した。第三回十字軍に出て、アナトリアの川で溺れ死んだ。山の中で眠り、いつか目覚めるという伝説になった。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(1)

レニャーノの戦いAD1176年5月29日 · 皇帝

本文

1122年頃、南ドイツのシュヴァーベン公の家に生まれた。父方はシュタウフェン家、母方はバイエルンのヴェルフ家である。ドイツ王の位をめぐって、この二つの家は長く争っていた。フリードリヒは両方の血を一人で引いていた。そのことが、彼を王に押し上げる理由の一つになった。

1188年に制作された写本中の細密画におけるフリードリヒ1世、バチカン図書館収蔵。
1188年に制作された写本中の細密画におけるフリードリヒ1世、バチカン図書館収蔵。Wikimedia Commons unknown illustrator · Public domain

1152年、叔父のドイツ王コンラート3世が亡くなると、諸侯はフランクフルトでフリードリヒを王に選んだ。30歳前後だった。コンラートには幼い息子がいたが、争いを収められる大人の王が求められた。赤みがかった髭をしていたので、イタリアの人々はのちに彼をバルバロッサ(赤髭)と呼んだ。ドイツ語ではバルバロッサは使われず、ただフリードリヒ1世である。

即位した彼が目を向けたのはイタリアだった。神聖ローマ皇帝はドイツ王であると同時にイタリア王でもあり、ローマで教皇から冠を受けることで皇帝になる。半世紀前、皇帝と教皇は聖職者を任命する権利をめぐって激しく争い(カノッサの屈辱)、皇帝の力はイタリアで弱まっていた。北イタリアではミラノをはじめとする都市が富を蓄え、自分たちで執政官を選び、皇帝の役人の言うことを聞かなくなっていた。

カノッサの屈辱に関わる図版:Schwoiser Heinrich vor Canossa
カノッサの屈辱Wikimedia Commons Eduard Schwoiser (1826 — 1902) · Public domain

1154年、最初のイタリア遠征に出た。生涯で6回、イタリアへ軍を率いて山を越えることになる。1155年、ローマで教皇ハドリアヌス4世から皇帝の冠を受けた。このとき、ローマで教皇に逆らって共和政を唱えていたブレシアのアルノルドを捕らえて教皇側に引き渡し、アルノルドは処刑された。1158年には北イタリアのロンカリアに諸都市の代表を集め、法学者に皇帝の権利を書き出させた。通行税、貨幣を造る権利、役人を任命する権利。都市が手にしていたものを、皇帝のものとして取り戻そうとしたのである。

いちばん強く逆らったのがミラノだった。皇帝軍は長い包囲の末、1162年にミラノを降伏させ、住民を退去させて町を壊した。ところが、これが北イタリアの都市を結束させた。1167年、諸都市はロンバルディア同盟を結び、ミラノを建て直した。同じ年、ローマに入った皇帝の軍は疫病(マラリアか赤痢とされる)に襲われ、多くの将兵を失って、皇帝はほとんど逃げるようにアルプスを越えて帰った。

教皇とも対立した。1159年に教皇アレクサンデル3世が選ばれると、皇帝は別の人物を教皇に立てて対抗し、教会は18年にわたって分裂した。アレクサンデルはロンバルディア同盟と手を結んだ。1176年5月、ミラノの北西のレニャーノで、皇帝の騎士軍は同盟の歩兵と騎兵に敗れた(レニャーノの戦い)。皇帝自身も落馬して行方が知れず、死んだと思われたほどだった。都市の歩兵が皇帝の騎士を退けたこの戦いは、のちにイタリアの人々が誇りとして語る出来事になった。

レニャーノの戦いに関わる図版:BattagliaLegnano
レニャーノの戦いWikimedia Commons The original uploader was Faberh at Italian Wikipedia . · Public domain

フリードリヒは方針を変えた。1177年、ヴェネツィアで教皇アレクサンデル3世と和解し、その足元にひれ伏して接吻したと伝えられる。対立教皇は見捨てられた。1183年にはコンスタンツの和約で、ロンバルディアの都市の自治を認めた。代わりに、都市は皇帝を形の上の主として認めた。力で取り戻すことをあきらめ、名目を取ったのである。

ドイツでは、従兄弟にあたるヴェルフ家のハインリヒ獅子公が、ザクセンとバイエルンの二つの公国を持つ大諸侯になっていた。フリードリヒは長くハインリヒを支えたが、レニャーノの前に援軍を頼んで断られたと伝えられ、二人の仲は壊れた。1180年、皇帝は諸侯の裁判でハインリヒからすべての公国を取り上げた。ハインリヒは妻の実家のイングランドに身を寄せた。

フリードリヒ1世
フリードリヒ1世Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1184年、マインツで盛大な宮廷祭を開き、二人の息子を騎士に叙した。年代記は数万人が集まったと書く。数は誇張だろうが、皇帝の威光がもっとも輝いた場面として記憶された。1186年には息子ハインリヒ(のちの皇帝ハインリヒ6世)をシチリア王家の娘コンスタンツェと結婚させた。これでシュタウフェン家は南イタリアとシチリアの王位にも手が届くことになり、孫のフリードリヒ2世の時代につながっていく。

1187年、サラディンがエルサレムを奪い返した(サラディンのエルサレム奪還)。翌1188年、マインツで十字架を受け、60代半ばで十字軍に出ることを誓った。1189年5月、大軍を率いてレーゲンスブルクを発った。イングランドのリチャード1世(獅子心王)やフランス王が海路を選んだのに対し、フリードリヒは陸路をとり、ハンガリーとビザンツ帝国の領内を抜けて小アジアに渡った。ビザンツ皇帝とは道中で何度も衝突した。1190年5月にはセルジューク朝の都イコニオン(いまのトルコのコンヤ)を攻め落とした。

フリードリヒ1世(バルバロッサ)の肖像
フリードリヒ1世(バルバロッサ)の肖像Wikimedia Commons Montecappio · Public domain

1190年6月10日、小アジアの南、キリキアのサレフ川で亡くなった。馬で川を渡ろうとして流されたとも、暑さの中で水を浴びようとして溺れたとも伝えられ、年代記によって書き方が違う。60代後半だった。指導者を失った軍の多くは引き返し、残りは息子のシュヴァーベン公フリードリヒに率いられて聖地へ向かったが、この息子もアッコンの包囲戦(第三回十字軍のアッコン攻囲)の陣中で病死した。皇帝の遺体は腐敗を防ぐために煮られて肉と骨に分けられ、各地に葬られたと伝えられるが、骨の行方ははっきりしない。

彼の死後、ドイツには伝説が生まれた。皇帝は死んでおらず、テューリンゲンのキュフホイザーの山の中で眠っていて、ドイツが危機に陥ったとき目覚めて帝国を取り戻す、というものである。もともとこの伝説は孫のフリードリヒ2世について語られていたものが、のちに祖父に移ったとされる。19世紀、ばらばらだったドイツの統一を願う人々がこの伝説を歌い、1896年には山の上に巨大な記念碑が建てられた。1941年、ヒトラーはソ連への侵攻作戦にこの皇帝の名をつけた(独ソ戦の始まり)。中世の皇帝は、イタリアでは都市の自由に負けた人として、ドイツでは眠れる英雄として、違う顔で記憶されている。

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