人物

ボレスワフ1世

Bolesław I the Brave
AD967年 – AD1025年(享年58・推定)
ポーランド王国重要度 3

概要

皇帝オットー3世をグニェズノに迎え、対等の扱いを受けた。キエフを一時取り、死の直前に王冠を戴く。ポーランドが王国になった最初の年になる。

所属

ポーランド王国

本文

967年に生まれた。ミェシュコ1世の子である。母はボヘミアの公女ドゥブラフカで、彼女との結婚をきっかけに、父ミェシュコは前年の966年にキリスト教の洗礼を受けていた(ポーランドの受洗)。ヴァルタ川とヴィスワ川の流域に広がるピャスト家の国は、このとき初めてキリスト教世界の地図に名を載せた。少年時代のボレスワフは、ドイツの王の宮廷に人質として送られていた時期があったとされる。

ポーランドの受洗に関わる図版:Matejko Christianization of Poland
ポーランドの受洗Wikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

992年に父が死ぬと、国は継母のオダとその息子たちにも分けられるはずだった。父は晩年、自分の国を教皇に献じる文書を残していて、そこにはボレスワフの名がない。父の死後、継母と異母弟を追い出して国を一人で取った。継母の側についた有力者たちは、目をつぶされたと記録にある。

ボレスワフが国の名を高めたきっかけは、一人の司教の死だった。ボヘミア出身のプラハ司教アダルベルトは、自分の司教区を追われて放浪し、997年、ボレスワフの支援を受けて、北のバルト海沿岸に住む異教徒のプルーセン人のもとへ布教に向かった。だがそこで殺された。ボレスワフは遺体を買い取り、グニェズノの教会に葬った。遺体と同じ重さの金を払った、と後に伝えられ、グニェズノ大聖堂の青銅の扉にもその場面が刻まれている。アダルベルトは2年後に聖人とされた。

ボレスワフ1世の肖像
ボレスワフ1世の肖像Wikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

1000年、皇帝オットー3世がグニェズノを訪れた。殉教した司教アダルベルトの墓に詣でるためだった。オットー3世はオットー1世の孫で、若くして古代ローマのような普遍の帝国をよみがえらせる夢を抱いていた。ボレスワフはこの訪問を華やかに迎え、宴は三日続き、食器は毎日取り替えられて客に贈られたと、12世紀の年代記は書く。皇帝はボレスワフの頭に自分の冠を置き、聖槍の写しを与え、「友にして帝国の同盟者」と呼んだ。その聖槍の写しは、いまもクラクフの大聖堂に伝わっている。

ポーランドの教会はこのときグニェズノ大司教の下に独立した。クラクフ、ヴロツワフ、コウォブジェクに司教座が置かれ、ドイツの大司教の下に入らずにすんだ。同じ年、南のハンガリー王国でも、イシュトヴァーンが王冠を受けている(イシュトヴァーン1世の戴冠)。東ヨーロッパの新しいキリスト教国が、皇帝と教皇の承認のもとで次々に姿を現した年だった。

ボレスワフの肖像とされる最古級のポーランド貨幣(992〜1000年頃)
ボレスワフの肖像とされる最古級のポーランド貨幣(992〜1000年頃)Wikimedia Commons Gabinet Numizmatyczny D. Marciniak · CC BY 3.0

だが、オットー3世は2年後に21歳で死んだ。次の皇帝ハインリヒ2世とは15年戦った。ボレスワフはエルベ川の東のラウジッツやミルスコを奪い、一時はボヘミアの公の座まで手に入れた。ハインリヒ2世は、異教徒のスラヴ人と手を組んでまでポーランドを攻めた。1018年のバウツェンの和約で、ボレスワフは奪った土地の多くを手元に残した(神聖ローマ帝国)。

同じ年、東へ向かった。キエフの大公ウラジーミル1世の死後、その息子たちが争っていて、ボレスワフは娘婿のスヴャトポルクを助けて兵を出した。1018年にキエフを取って、義理の息子を大公に据えた(キエフ・ルーシ)。キエフの城門を剣で打ったという話は後の伝説である。帰る途中でその財宝を持ち帰り、スヴャトポルクの政敵ヤロスラフの姉妹たちも連れ去った。国境のチェルヴェンの町々も手に入れている。スヴャトポルクは間もなくヤロスラフに敗れて追われた。

グニェズノ会議でボレスワフに冠を授けるオットー3世(想像図)、『ポーランド年代記』1521年
グニェズノ会議でボレスワフに冠を授けるオットー3世(想像図)、『ポーランド年代記』1521年Wikimedia Commons Z dzieła "Chronica Polonorum" Macieja z Miechowa, 1521 · Public domain

1025年、教皇の許しを待たずに王冠を戴いた。復活祭の日、グニェズノで、大司教の手で戴冠したとされる。皇帝ハインリヒ2世が前年に死に、ドイツの側が混乱していた隙を突いたとみられる。その数か月後に死んだ。58歳前後だった。ポーランドが王国を名乗った最初の年になる。

人柄の記録は、書き手によってまるで違う。同じ時代のドイツの司教ティートマルは、敵として、狡猾で残酷な男として描いた。12世紀にポーランドで年代記を書いた修道士は、勇敢で寛大な理想の王として称えた。後世のポーランドでは「勇敢王(フロブリ)」と呼ばれる。

ボレスワフのデナリウス銀貨「ポーランド公」の銘
ボレスワフのデナリウス銀貨「ポーランド公」の銘Wikimedia Commons Public domain

王冠は、すぐには定着しなかった。息子のミェシュコ2世も戴冠したが、内紛と外からの攻撃で国は乱れ、王の位は途絶えたり戻ったりを繰り返した。それでも、ポーランドの人々にとって、ボレスワフは国を王国にした最初の人である。グニェズノの大司教座は、いまもポーランドのカトリック教会の首座であり続けている。

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