ラーマ5世
概要
奴隷制を廃し、制度を近代化した。英仏に領土を割きながら、東南アジアで唯一独立を保つ。
関わったできごと(1)
シャムの近代化1868年 · 当人本文
ラーマ5世、チュラロンコーン王は1853年9月20日、シャム(いまのタイ)の都バンコクで、モンクット王(ラーマ4世)の王子として生まれた。父は即位する前に27年間僧院で過ごし、ラテン語や英語、西洋の天文学まで学んだ学者肌の王で、英国と通商条約を結んで国を開いた人だった。王子たちには英国人の家庭教師がつけられた。その一人アンナ・レオノーウェンズの回想は、のちに映画『王様と私』の原作になったが、内容には多くの脚色がある。

1868年、父王は日食の観測に出かけた先でマラリアにかかって死んだ。15歳のチュラロンコーンが王位を継ぎ、成人するまでの5年間は有力な貴族が摂政として政治を握った。若い王はこの間に、英国やオランダの植民地だったシンガポールとジャワ、そしてインドを視察した。東南アジアで、王が自ら外国の植民地を見て回るのは前例の無いことだった。西洋の力がどこから来るのか、自分の国がどうなりうるのかを、彼はその目で見た。
1873年、20歳で改めて即位の式を挙げると、王はまず、臣下が王の前で這いつくばって進む礼をやめさせた。翌1874年には、奴隷の身分の解放に手をつけた。当時のシャムでは、借金のかたに身を売った人々を含め、人口のかなりの部分が奴隷の身分にあった。王は一度に解放すれば社会が混乱し、主人である貴族たちが反発すると考え、即位の年以降に奴隷の親から生まれた子は、成人すれば自由になるという形をとった。奴隷の身分を最終的に廃止する法が出たのは1905年である。30年をかけた改革だった。

改革は、古い有力者たちとの綱引きでもあった。即位の直後、王の周りの若い改革派と、摂政を務めた貴族や副王の勢力との間で緊張が高まり、1875年には副王が英国の領事館に逃げ込む騒ぎまで起きた。王はその後、古い世代が退くのを待ってから改革を進めた。1892年には、それまで有力な貴族の家が分け持っていた行政を、内務、財務、外務、教育などの省に改め、多くの省の長に自分の兄弟を据えた。地方では、半ば独立していた領主たちの代わりに、中央から役人を送り込んだ。学校を開き、王子たちを英国やドイツ、ロシアなどへ留学させた。郵便と電信を整え、1890年代にはバンコクから北へ鉄道を敷き始めた(シャムの近代化)。
改革を急いだのは、まわりがすべて西洋の植民地になりつつあったからでもある。西のビルマは、英国との3度の戦争で1885年に王国が滅ぼされた(ビルマの併合)。東では、フランスがベトナムとカンボジアを手中に収め、メコン川の流域へ手を伸ばしていた。1893年、フランスの砲艦がチャオプラヤー川の河口の砲台を突破してバンコクの前まで遡り、王宮に砲口を向けた。シャムは、メコン川の東岸、いまのラオスにあたる土地をフランスに譲るほかなかった。

チュラロンコーンは、属国や辺境の土地を手放す代わりに、国の中心を守る道を選んだ。1896年、英仏はチャオプラヤー川の流域を両国の勢力の間の緩衝地帯として独立を保障することで合意した。その後も、1904年と1907年にはカンボジア西部の州をフランスに、1909年にはマレー半島北部の4州を英国に譲った。引き換えに、英仏が持っていた治外法権の一部を取り除かせた。王国が従えていた周辺の広い土地が、この間に失われた。
王は1897年と1907年の2度、ヨーロッパを訪れて各国の君主と会い、シャムが文明国の一員であることを示そうとした。ロシアの皇帝ニコライ2世とは、皇太子時代の訪問以来、親しい間柄だった。日本とは1887年に国交を結んでいる。同じ時期に近代化を進めた明治天皇と、しばしば比べられる。

1910年10月23日、チュラロンコーンは腎臓の病のため57歳で死んだ。在位は42年に及んだ。命日はいまもタイの祝日で、バンコクの王宮前の騎馬像には多くの人が花を供えに来る。タイが東南アジアで唯一、植民地にされなかったのは、英仏の対立の中に位置した地理の幸運と並んで、彼の改革と外交によるところが大きい。ただし、父の代に結ばされた不平等な条約が完全になくなったのは、1930年代の末である。王が進めた中央集権の国家は、その後も王の手に権力を集め続け、1932年の立憲革命で絶対王政は終わった(タイの立憲革命)。